ネット右翼という「思想集団」

なんか騒ぎになっているが。

コメント欄にはもはやお約束になったような反応が。小倉氏の文章って時々酔っぱらったようなふらつきがあって真意が読めないところがあるんですが、文字通りに取れば色んな可能性があるよねってことで、まぁ、ネットの向こうが見えない以上あるといえばある。
でも誰かがカミングアウトしたところで、それとネット上の活動を突き合わせて確かにその人があれをやったこれをやったって確認だって一般的には不可能ですよね。「ネット右翼」の活動が組織的なら、組織の一員のカミングアウトで色んな事が見えてくる可能性はあるけど、そんな人におおっぴらに呼びかけて素直にはいと名乗り出るわけないし、嘘の告白で小倉氏を陥れるとかだってできるわけで、こんな呼びかけに意味があるとも思えないし。やっぱ小倉氏が何考えてんのかわかんないや。

僕もネットの向こうをフィールドワークして検証したわけじゃないけど、ネットで知り合ってオフラインでも付き合いのある人とかの様子を見る限り、ウヨ的な発言をする人たちが組織立って動いているという印象は全くないです。ひょっとすると煽る側煽られる側という階層があって、僕は煽られる側しか見てないのかもしれないけど、それにしても「組織」とは無関係の層があるというのは間違いないでしょう。

小熊英二、上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム』(isbn:476640999X)が「つくる会」のメンバーを調査していますが、彼らはそれぞれが自分なりの市民感覚を元に自発的に集まってきており、「組織として動く」ことにはむしろ抵抗があるらしいです。大昔、まだ市民的な支持があった頃の左翼的市民運動にむしろ似ているとのこと。「ネット右翼」のプロフィールも似たようなものではないかと思います。

コメントスクラムを問題にしているようですが、元々ネットの掲示板なんかでは、みんなが自分の思っている事をそのまま垂れ流しただけで袋叩きみたいになってしまうという構造があるわけで、できあがったコメントツリーを見て何かの意志を感じるのは大抵は錯覚に過ぎないと思います。

それにしても違和感を感じるとしたらやはり、オフラインではあまり耳にしないタイプの意見がネットにはあまりに多い、しかも方向性が揃いすぎ、というあたりでしょうか。でも普段言えないような事だからネットに書くわけで、そういう言葉が濃縮されるた形で出てくるのは匿名メディアの特性でしょう。方向性が揃っているのは「ネット右翼」が市民派左翼の落とした影みたいな存在だからで、市民派左翼の反復強迫みたいな傾向が強ければ強いほど「ネット右翼」もそうなるということでは。「ネット右翼」な人たちにしてみれば今の日本は「茶色の朝」(ASIN:4272600478)ならぬ「赤色の朝」なのです。

そういうわけで「ネット右翼」に組織的な背景はない、あるいは重要ではない、というのが僕の見解で、「思想集団」と呼ぶのは語弊があると思います。が、だからといって「「ネット右翼」は不当なレッテル貼りだ!」というのも変な話。「俺はコミケに行かないからオタクじゃない!」とか言ってもあんまり意味がないのと同じで。言論か消費かの違いはあれど、「ネット右翼」もオタクもその活動で一つの社会現象を支えているのには違いないのですから、そうでない人と区別する名称で呼ばれる事は仕方がないでしょう。

まあ、いわゆる右翼、政治的な右翼と違うから「右翼」と呼ぶのは不当だというのはそうかもしれないけど、政治的な左翼のアンチには違いないし。『〈癒し〉のナショナリズム』にならって「草の根保守」という言い方もあるけど、現状維持よりは現状打破を訴えてるし、憲法的な原理原則を否定する傾向もあってむしろ革新的*1だし、なんかしっくりこない。他にいい呼び方ないですかね。

「いや、自分たちは普通の一般人だから」なんて言う人もいます。でも普通って何? 組織に所属してない、バイブルも教祖もない、自然な感情で動いているだけだ、だから普通なんだという理屈でしょうか。でも、同じように自然な感情で動いているだけでも「ネット右翼」とは違った考え方の人だっていっぱいいるでしょうに。自分の考えに反対する人はみんな左翼かそうでなければ左翼マスコミに洗脳されてるとでも言うのでしょうか。そう思っておくと、自分は洗脳されない心の強い人間だ、なんて思えて幸せなのかもしれないけど。

それに自然な感情というのが本当に自然なわけないし。性欲を本能だと思い込むのと似たようなパターンでしょうか。


*1:クルーグマンネオコンを評して革新的と言ってたっけ。