ピンカー『人間の本性を考える』: PDPモデルはブランク・スレート説か?

『人間の本性を考える』上巻(isbn:4140910100)を読んでる途中、ニューラルネットワーク批判っぽい部分があったので顔真っ赤にしてチェック。『PDPモデル - 認知科学ニューロン回路網の探索』(邦訳:isbn:4782851251)について p54 でこう言っています。

ラメルハートとマクレランドは、大量の訓練を施した包括的な連合主義のネットワークですべての認知を説明できると論じた。
彼らも認識していたとおり、この理論からは「なぜ人間はラットよりも賢いのか」という問いに適切な答えが得られない。彼らは次のような答えを出した。

以上を考えると、この問いは少々やっかいに思える。……人間は、ラットはもとより他の霊長類と比較してもはるかに多くの皮質をもっている。とくに、もっぱら入出力にかかわっているのではない脳構造を非常に多くもっている。そしておそらくこの余分な皮質は、人間をラットばかりか類人猿とさえ区別する機能を増進させるために、脳のなかに戦略的に配置されているのだろう。(中略)
だがラットと人間のちがいには、ほかの面も関係しているはずだ。人間の環境にはほかの人びとも含まれているし、思考過程を体系化するために人間が発展させてきた文化装置も含まれている。

そうであれば人間は、大きなブランク・スレートをもったラットに「文化装置」と呼ばれる何かを足したものにすぎない。それが私たちを、社会科学の二〇世紀革命の残り半分に連れていく。

ラメルハートらは強調部分(なんばによる)のような事を言っていません。引用で中略になってる部分を読んでいれば、単に脳の大きさと文化装置だけを問題にしているのではないとわかるはずなのですが。以下その中略された部分を『PDPモデル』邦訳 p162 から引用。

その問題の場所の一つが角回として知られる脳の領域である。脳のこの部分はチンパンジーにすら存在しない。これは側頭葉の言語屋と頭頂葉の視覚野とを結ぶ場所にあり、これが損傷を受けると、言語能力及び単語を意味に対応付ける能力に重大な障害を被る。角回のような構造は何か特別な内部結線を持ち、実行する認知的機能の点で何か全く異なるものになっていてもよさそうなものなのに、細胞の構造は脳の他の部分のものとそれほど変わらない(第20[第10章]、21章[割愛]参照)。従って、ネズミと人間との違いの一端は、言語や思考のように、人間にはあって他の動物にはない重要な機能を発達させる連絡網を、形成する能力があるのかないかにかかっているというのはもっともらしい話であろう。

強調部分(なんばによる)にある通り、言語や思考の機能を発達させる(生得的な)能力がラットと人間を分けるというのがラメルハートらの見解です。当然これは「文化的装置」云々の前提になっています。言語の能力がなければ「文化的装置」が生まれることもそれが新しく生まれた人間に影響を与えることもほとんどありえないのですから。

PDPモデル』のこの部分や、その手前にある「生得説対経験説」の節を読んでも、ラメルハートらを「ブランク・スレート論者」扱いするのは間違いだと思います。「生得説対経験説」の節ではネットワークの初期状態は進化の結果たる生得的なものをあらわし、学習によってそれを上書きできるとしています。そこでははっきりとブランク・スレート説は放棄すると書いています(邦訳 p159)。

ただ、経験主義者の教義の中で最も弱い局面、つまり初期状態は白紙(もしくは全体的に秩序のない状態)だという考えは放棄するのだ。その有機体はどんな初期状態であれ進化の歴史の中で用意された状態から始められるのだ。

というわけで、ピンカー大丈夫か? というのが今のところの感想。



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