パトリシア・スタインホフ『死へのイデオロギー』

わりと最近のことだけど重信房子に萌え、じゃなくて興味があって、60年代の学生運動のことを調べようと思い、手始めに表題の本を読んでみた。約330ページある本文の最初の40ページくらいが岡本公三へのインタビューでこれが目当てだったのだけど、メインテーマの連合赤軍の同志粛清事件の話が興味深かった。

僕はこのあたりの歴史の知識が全然ないのだけど、粛清事件は閉鎖空間で疑心暗鬼になってスパイ容疑をかけられた人が拷問され殺された、と何処かで読んでそう思い込んでいたのだが、どうもそれは違うらしい。スタインホフの主張は、こう要約すると語弊があるかもしれないけど、山岳ベースがブレーキなしの自己啓発セミナーみたいなことになってたのではないかというもの。

リーダーの森恒夫は山岳ベースに入ってまもない頃、革命戦士は個人の内面から「共産主義化」される必要があり、個人個人の内面的な弱点を集団的に検証することでそれを達成しようと主張する。、スタインホフによればその手法は「意識高揚法(コンシャスネス・レイジング)」と呼ばれるグループセラピー(あるいは自己啓発セミナーの類)で使われる技法によく似た技法だが、この種のセラピーで必要な歯止めの仕組みを欠いたまま導入されたのだという。

森は連合赤軍に新しい方法を導入したが、これはアメリカではグループ心理療法としてよく行われるもので、さまざまな自己開発グループに広がっている。この療法の目的はより強い自己の形成を助けることにあるが、最初の段階では集団による批判、追及を行って、むだな防衛心を強く自覚させ、それを取り除かせようとする。通常、グループを率いるのは熟練した指導者で、集中批判というものが非常に残酷になっていきがちなことをよくわかっていて、行きすぎにならないように議論の方向をうまくコントロールする。
グループの指導者がはっきりしていれば、その人間が行きすぎに歯止めをかけることができる。しかし、明確な指導者なしで意識高揚法、グループ批判会がはじめられた場合でも、アメリカでは、グループは普通、平等主義の意識が強いので、そのプロセス自体に異議や不安を表明することができ、過度に批判的になるのを抑えることができる。しかしそれでも、素人がこの療法を用いるのは危険で、行きすぎが見られる場合が多い。ドラッグ中毒者のリハビリや、自己改善セラピーなどは、この療法を誤用しているとして非難されている。
連合赤軍は、行きすぎの傾向に歯止めをかける手段を二つとももっていなかった。熟練した指導者もいなかったし、グループの平等主義もなかったのである。(後略)
『死へのイデオロギー』 p152,153

この本の中では森はカルト集団の教祖みたいな天然キャラとして描かれているように見える。山岳ベースでの最初の死者がでた時の話:

みなが緊張しきって待機するなか、森は中央委員会の赤軍派メンバー、山田孝と短時間話し合った。それから森は、尾崎の死は「敗北死」であるとみなに告げた。彼は共産主義化が自分には獲ち取れないとわかり、そのショックで死んだのだとの説明だった。医学的なショック死状態を敗北死と位置付けた彼の理論は、科学的に考えようとするメンバーの気持ちをそらし、納得させるに十分だった。さらに重要なことは森がふたたび、辻褄の合わないことをきれいに解消するイデオロギーを発明したということである。
『死へのイデオロギー』 p170

なんだか、ライフスペースの「グル」高橋弘二を彷彿とさせる無茶発言で、本当にみんな納得したんだろうかと思うが実際納得していたらしい。森はこんな調子で素面で見ればほとんど思いつきとしか思えない「理論」や判断を次々に下し、個々のメンバーはそれに振り回される。森の判断に疑問を持てば、あるいは自分の判断で動いてそれを後から森に否定されたら、総括の対象にされるという恐怖。と同時に、彼の理論に納得していれば、総括で手を汚した罪悪感から解放されるという誘惑。

しかしスタインホフは森に自己正当化の「理論」を編み出す才能があったことは認めるものの、彼自身に何か邪悪な動機があったとは考えてはいない。悲劇は森や永田の人格のせいでも、連合赤軍の革命思想のせいでも、メンバーの個人的な人間関係のせいでもなく、一定の条件下では誰もこの悲劇を避けられないのだという。

われわれ全員が、連合赤軍事件のような悲劇の、被害者にも加害者にもなりうるのである。そしてそのような悲劇は、革命後にも革命前と同様に起こるのだ。それらは、イデオロギー上の信念が、われわれの目や耳や心でとらえたことよりも真実だとされているかぎり、そして組織の結合や指導者の権威が、個々人のノーと言える可能性を踏みにじってしまうかぎり、なんどでも繰り返し起きるだろう。こういう考え方はアメリカ人的だと思われるかもしれないが、その証拠は否定的であるにせよ肯定的であるにせよ、あらゆる文化に見出すことができると私は思う。ただ他人の庭のほうがずっと見つけやすいというだけだ。
『死へのイデオロギー』 p305

以下私見。その通りなのかもしれないが、「れわれの目や耳や心でとらえたこと」だってイデオロギーとは無縁ではない。

というか、少なからぬ運動家は日常感覚に身を委ねる普通の生活は「ヤツら」のイデオロギーに荷担することなのだ、という気付きがあって運動に身を投じるのではないか。その時、運動を支えるイデオロギーは、端的に真理であると捉えられたり、まるごと「目や耳や心」を奪われてしまったりもする。

おそらく、「ノーと言える可能性」を踏みにじらないために必要なのは「ノーと言われる可能性」を受け入れることだと思うのだが、これは日常生活においてすらも困難なことであり、ましてや組織や歴史を背負った身ではいよいよ困難であろう。なんだか絶望的な気分になってくる。