「疑う」を疑うことについて

正直何を言いたいのかよくわからない。いや、言いたいことはなんとなくわかるのだけど、それでどうしろと? みたいな思いに駆られるので北田氏の意図はあまり意識せずインスパイアされたことだけ書く。


「メディアを疑うこと」を疑う、というのはどういうことなんだろう。元記事のブクマコメントをみると、無限退行ですか? みたいな感想もあって、なんか嘘臭い、背後取りゲームの臭いがする嫌らしさを感じさせるフレーズではある。

でもそういうことではないと思う。「メディアを疑うこと」を疑う、というのは、「メディアを疑ってます!」という態度に対して、「それって疑ってるの?」という疑問を突きつけることなのではないか。

疑うという行為は不安を伴うものだ。単に否定するということではなく、疑問符を抱え込んだまま、なお正気を保って生きるということだ。しかしメディアリテラシーを称揚し「メディアを疑う」人たちの中には、むしろ認めたくない事を否定して安心するために「疑う」人が少なくない。それでは疑っていることにはならない。

以前 視点・論点「まん延するニセメディアリテラシー」 で似たような事を書いた。二分法によりかかって白黒はっきりさせて安心することを「メディアリテラシー」だと思い違いしてはいけないということだ。

もちろん白黒つけないといけないことはある。グレーだから何もしないという態度が許されないことがある。実証科学の速度で政治をやっていては後手にまわってしまうということはあるだろう。しかしそういった決断は実証主義的に検証され見直されることを前提としないなら、安心したいだけ、不安を忘れたいだけの暴挙だ。

しかし 安心について で書いたように、誰だって安心したい。安心するな、疑問符を抱え込め、というメッセージは万人には受け入れがたい。どうするのか? なにも万人が四六時中疑い続けなくてもいいのだ。自分のかわりに疑い続けてくれる人を信頼すればよい。笑顔で安心を約束する政治家でなく、気難しそうで疑い上手な政治家を選べばいいのだ。そのためにはまず疑うことの意味と疑うことの価値が社会に共有されなくてはならない。今はまずそれを目指す段階なのだろうと思う。