「ユーザ体験原理主義」について

あるユーザ体験が多くの人に求められているなら、社会経済のシステムや技術的な基盤はそれに合わせて振り回されるべきだと私は考えている。
rimoYouTubeを批判するとしたら、批判する人はそれに対抗するようなユーザ体験を提示すべきである。もしくは、それによって失われる既存のユーザ体験の価値を訴えて、それを主たる論拠とすべきだと考える。ユーザ体験Aとユーザ体験Bが、互いの価値を競うような議論がまっとうな議論だと考えている。
ユーザ体験原理主義者 (アンカテ)

はてブコメントでのツッコミは essa さんがどこまでアナーキーなのかと思って書いたのだけど、要するに「予測時点で特に意識はしてなかったが、常に既に革命を期待し肯定している」というお返事と解釈しました。

個人的には rimoYouTube そのものを批判する理由はない(業界は混乱させるだろうが、実害は少なかろうと思うので)けれど、上で引用した論理にはひっかかりがある。

まず、誰かに犠牲を強いるような「ユーザ体験」は、体験する人にとっていくら価値があろうとそれ自体許されないと思う点。「犠牲」ってなんだという話はあるけれど。「革命」というと、権力者が誰かを犠牲にして積み上げた富を取り返す(結果、既得権益を持っていた者が犠牲になる)というイメージだし、因果応報原理主義の僕としてはそういうのは肯定したいという気持ちはある。

もう一つは、ユーザ体験自体肯定できるものだとして、その価値あるユーザ体験の持続可能性はどうなのかという点。知的財産権は本来は革新を持続させるための仕組みだ。オープンソース運動は「名誉」を媒介として回る仕組みの可能性を提示したが、それでも社会の大部分はお金で回っているし、これからもそうだろう。YouTube で映像作品が違法に公開されても権利者が餓えて死なないのは既存のメディア企業が既存の枠組みの中でぼろ儲けしてるからこそで、「革命」が進行したらどうなるのだろうという不安はある。

essa さんの主張の根本である「社会経済のシステムや技術的な基盤はそれ(ユーザ体験への要求)に合わせて振り回されるべき」というのは賛成。社会のために人があるのではなく、人の幸せのために社会があるのだから。