シベリア抑留者について(2) : 抑留者の性

軽い(?)ネタから。一部の抑留者はそのへんの非モテ諸君よりはずっと恵まれていたかもしれない。もちろん、性的な意味で

まずこの絵を見てくれ。こいつをどう思う?

木内信夫『旧ソ連抑留画集』より
 逢うは別れるの常とか、つらい別れになった戦友もいたようだ。ドスビターニア(さようなら)泣いてくれるなナターシャ、今頃何をしているだろう可愛そうに。

泣いてくれるなナターシャ (旧ソ連抑留画集 〜 元陸軍飛行兵 木内信夫)

シベリア抑留者が強いられた強制労働というと森林の伐採や材木の運搬のようなイメージがあり*1、実際そのような重労働で命を落とした(殺された、とも言えるだろう)抑留者も多数いたのだが、建築現場や工場や発電所での労働など、比較的軽い仕事もあった。そのような仕事では現地の女性労働者と一緒に仕事することもあったようだ。

比較的軽いと言ってもかなり激しい肉体労働であり、当時の日本人の女性観からすると考えられないことだった。彼女らとの出会いにいろんな意味で衝撃を受けた抑留者もいた。照雲氏の「シベリアの抑留日記」には彼女らに対する相当なリスペクトぶりが伺える。

発電所裏の石炭の山から懸垂ワゴンに依って、ボイラ−迄運搬するのは、皆十八才から二十二、三才の女性である、彼女達はむ七時間労働でノルマを完遂して、午後三時頃には帰ってしまう、溌剌とした、逞しい彼女らの肉体美、今まで日本の女性しか見ていない私共には驚異である

シベリア抑留日記 第3章 (15) (シベリアの抑留日記)

彼女らと抑留者との関係は良好だったようだ。

七時間で仕事を終えて彼女達はシャワ−で身体を洗いこざっぱりとした服に着てがえて二三人づつ連れだってう歌を唱いながら、私達に手をふりつつ帰って行く
シベリア抑留日記 第3章 (15) (シベリアの抑留日記)

そして照雲氏の日記のあとがき(日記の公開後に書かれた補足のエピソード)によると。。。

レニナゴルスクの街での作業に出て、気が着くのは、男が戦争に出て居て少ない事、労働者の女性が逞しく働いて居た事です、作業場でこれらの女性と、適当に、作業員がHするのは、皆には暗黙の知られたことでした、それと、もし子供が出来るとその相手が親権を放棄すると、地域でスタ−リン  の子として、彼女は、軽労働と、育児手当が出るのだそうです、

それとヤポンスキ−の子供だと頭が良いからと云っていました。或る人は、コルホ−ズの議長の娘と恋愛になり、議長がナホトカの外務省まで行って、彼を連れて帰って行ったとの事、(沖縄の生まれで、帰ってもアメリカに占領されているからとの理由)帰国出来る事が決まったときに、こんな女性から収容所に申告され、藤井中尉を呼びに来た時は、同じ名前で私もどきんと、しました。

あとがき(記録外のエピソート) (シベリアの抑留日記)

冒頭の木内氏の絵に描かれていたのはこういうことのようだ。


そして照雲氏ご自身も。。。

私が、発電所に行って居たとき、其処の事務所のナタ−シャに、「お前には、日本に妻が居るのか?」と聞かれたので、「いや、唯一人だよ」と云うと、「ではヅバ−ジバ、ナ−ダ?」と、私に迫ってきた、彼女は、「こんな生活は男に執って不自然だ、いづれヤポンに帰って結婚するだろうが今は、そんな事を我慢してはいけないから、此処にいる限り、お前を愛してあげる。てな事もありました、(ドイツ人なんかは、大きいだけ、ヤポンスキ−は、堅いから良いんだって?)性についてはおおらかでした。

あとがき(記録外のエピソート) (シベリアの抑留日記)

マジですか? それなんてエロゲ? という気がしなくもないが、そういうこともあったのかもしれないですね。。。ちくしょう…

あまり煽るとそこらじゅうの非モテ諸君が赤木智弘化して「希望は戦争」とか言い出しかねないのでこのへんで。

追記: あくまでも…

あまりに軽く書きすぎた気もするので補足。シベリア抑留というのは地理的にも時間的にも大変な広がりのある事件で、上に書いたような事はあくまでその一部であることには留意したい。

また、僕自身はまだ勉強を始めたばかりで、そのような広がりを踏まえてバランス良く紹介する能力は全くないし、僕の元々の問題意識が「ソ連を恨まない抑留者がいるのはなぜか」というところにあり、ここで取り上げる内容には一定のバイアスがある。

地理的な広がりについては、旧ソ連抑留画集のトップにある地図に収容所の所在地と、木内氏自身がそのうちのどこにいたかが描かれていて参考になる。「シベリア」抑留と言っても木内氏の場合ウクライナ共和国まで移動している。

時間的な広がりについては、ソ連への移送開始が終戦直後の1945年8月、最初の本国送還が1946年12月、最後に戦争犯罪の受刑者として残された抑留者が刑期を終えて送還されたのは日ソ共同宣言の後、1956年12月である。もっとも最初の冬を越せずに亡くなった方が多数(おそらく数万人単位で)いた。

もちろん体験の個人差もある。捕虜の間では旧軍での階級による上下関係が残っていたし、ソ連側の政治工作に同調する者は優遇され、反抗する者は冷遇される、ということもあった。



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*1:たとえば異国の丘の舞台のような。