「イナゴの飼育」について

また僕のブクマコメントが物議を醸しているのに今更気付いた!

イナゴイナゴ言って、げらげら嘲笑するようなひと居るけど、
そういうの見ると悲しくなる。
rna 人 コメント欄で煽って暖をとるapemanさん。煽りすぎると諸々の反応が煽った効果なのかイナゴの習性なのかわかりにくくなるのでイナゴの飼育記録としては質が下がるのが難点。
こういうのとかね。
「何様だよこいつら・・」と一瞬思うには思うよ。謙虚さの欠如を感じる。
酷い名無しコメントを見て、「この雑魚イナゴが」と一瞬思うのと同じようにね。

tasoiさんへの再応答 (2) コメント欄 - tasoi さんのコメント

引用されているのは、リンチと化す“祭り”(Apes! Not Monkeys!) へのブックマークコメントですね。

ちょっと流れが掴めてないのだけど、とりあえずどういうつもりで書いたコメントなのか説明しておきます。まあ、一言で言うと apeman さんを軽く批判するコメントなんですが。。。

まず、タグ [人] は人物に興味がある時に付けているタグです。興味の対象となる人物は記事中で言及される人物の場合と記事の筆者の場合とがありますが、ここでは筆者である apeman さんを指しています。

「コメント欄で煽って暖をとるapemanさん」というのは、炎上気味のコメント欄に自ら燃料投入してなにやってんのよ! ということ。とはいえ、なにやってるのかは判っている(つもり)なので驚きはしてないのですが。

日頃の apeman さんの言動を見ていると、攻撃的で容赦のないツッコミや煽りで相手の反応を余すことなく引き出して、そこから批判対象になる人たちの思考パターンを白日の下に晒そう、相手を説得するよりも読者の(詭弁や欺瞞に対する)免疫化を促そう、という意図が感じられる事が多々あります。なので、ここでも同様にわざと煽りを入れることで「祭り」参加者の性質をより際立たせるような反応を引き出そうとしてるのかな、と思いました。

しかし、そうやって引き出された反応から伺える性質が、本当に批判対象を特徴付けるような性質なのかというと疑問です。つまり、そこにあらわれているのは、論争で追いつめられたり感情を逆撫でされたりして余裕がなくなった人が陥る自然な思考パターンだったりしないか? ということ。「煽りすぎると諸々の反応が煽った効果なのかイナゴの習性なのかわかりにくくなるのでイナゴの飼育記録としては質が下がるのが難点」というのはそういうことです。

以下自問自答。

それにしても「イナゴ」呼ばわりは酷くね?

…と言われるかもしれませんが、ぶっちゃけ、全然酷くないと思ってます。だって、彼ら/彼女らがやってるのは対話を求めて意見を述べるということではなくて、数と勢いで圧倒して相手を黙らせたり、印象操作したりしようとしているのですから。*1

群衆心理で自分を見失うことは、誰でもそういう場にいればそうなりうる、という意味で、それ自体が非難されるべきではないとは思います。でも、コメントスクラムというのは「たまたま群衆の中に居合わせたおかげで暴動に荷担してしまった…」とかそういうのじゃなくて、意識してか無意識でか知らないけど、自分からわざわざそういう場に、群衆心理にどっぷり浸りたくて集まってくるわけですよ。一人の人間としてではなくて祭の仮面を付けた群衆の一人として。

だから、少なくともそういうペルソナを指して「イナゴ」呼ばわりするのに僕は抵抗を感じません。「イナゴ」呼ばわりされたくなければ対話の条件が整ってから対話に相応しい言葉で話しかければいいだけの話です。

だからといってわざわざ「イナゴ」呼ばわりする理由ってあるの?

理由がなくてもいいじゃないか! げんろんのじゆう。ピース!

。。。ていうか、自由主義的に考えるならむしろ逆で、ある種の言葉遣いを自粛するべしとすることのほうが強い理由を要求すると思います。例えば差別に繋がるとかそういう。

「イナゴ」呼ばわりは侮蔑的ではあるけど、その人の属性をあげつらっているのではなくて、その人の態度を非難してるわけだから、ことさら自粛する必要はないと思います。もちろん態度に対する非難というのは、そういう態度を選択する人物の人格への非難という意味合いも不可避的にあるわけですが、別に不当な非難というわけでもないと思う。

*1:逆に apeman さんも論理と教養と毒舌で相手を圧倒してしまい、対話が成り立たない状況に追い込んでしまっている面はあるけれど…