自由と秩序のベルカーブ

kmiura さんからトラバ。

このあたり「法の完全実行」みたいな話も絡むのだろうか。ゼロリスクを追究してあらゆる危険を未然に防ぐような市民監視・管理アーキテクチャが比較的低コストで実現可能ならそれを導入すべきなのかどうか、みたいな。

固い秩序による不自由さ・生きにくさには個人差がある、というか、多数決で選んだ秩序なら多数派にとっては「やりたいとも思わないようなこと」ができなくなるだけでたいして不自由を感じない、主観的には自由度 MAX かもしれない。そういう人たちにとっては自由と秩序のグラフはベルカーブにならず、せいぜい右端がサチってフラットになるだけかもしれない。コスト的に見合わない(秩序を高めるコストに対して増える自由が少なすぎる)から「ほどほど」に甘んじているだけで、監視・管理コストの価格破壊が起これば躊躇うことなくグラフの右端を目指すのかもしれない。

格差・不平等を訴えたところで「お前の娘が犯罪者の餌食にならないのは誰のおかげだ?」などと言われたら、どう言い返せるだろうか?

もっともユードルは「権力は腐敗する」という経験則を根拠にしているのかもしれない。元々『八月の神話』では秘密主義と権威主義(それは冷戦下では安全保障上の理由で容認されていた)で腐敗した原子力委員会を批判していたのだ。『茶色の朝』のように多数派の自由を保障してくれた権力が突然市民社会全体に牙をむき、気付いた時には誰も逆らうすべを持たない、という事態を想定していたのかもしれない。

しかし、だから「反乱の権利」というのも極端というか、倒錯的に思える。有事に備えて平時の生活を犠牲にし続けるような論理はどうなんだとか、そもそも反乱の結果生まれた権力が反乱の権利を保証する保証はないのでは、とか。