「デマ」とつきあうために(その2)

前回の記事に応答がありました。

「人格と言論とは分離すべきである」などと「べき論」を繰り返して、表現をソフトにする程度の配慮もしないことは、言論に親しまない人にとってあまりに不親切であり、また良くない結果を招きかねない行為ではないでしょうか。
前エントリに関連して。応答と補足 - mitsu_bcの日記

ここでの「表現をソフトにする」は文脈から(罵倒するなみたいな話ではなくて)専ら「デマ」という強い否定の言葉を使わない、という意味に解釈した上でお返事します。

ソフトな対応の効果は期待できるのか

確かに可能性としては「良くない結果を招きかねない」とは言えるでしょう。でもそれはどのくらい蓋然性があるのでしょうか。

つまり「デマ」認定したためにその人が余計にデマを流すようになったが、その人は「デマ」認定しなければデマを流さなくなっていたはずだ、と考えられるような事例はあるのでしょうか。あるいはソフトな対応によってその人はその後デマを流さなくなったが、「デマ」認定していたらデマを流し続けていたはずだ、と考えられる事例はあるのでしょうか?

実のところ、僕が1990年代の fj (NetNewsニュースグループ群)で議論をしていた頃は、もっとみんなソフトな対応をしたほうが議論が捗るのではないかと思っていた時期があったし、実際そういう意見を言ったこともありました。しかし実際にいくつかのトラブルを目撃したり巻き込まれたり*1してみると、正直甘かったなと思うようになりました。

トラブルになる人の行動パターンに、ソフトな対応でどうにかなるような要素が見つからないのです。みんながそうというわけではないのでしょうけど、大きく荒れるような言動を繰り返す人は、基本的に人の話を聞いて意見を変えるということがほぼないですし、意見を否定されること自体が気に入らなくて、ソフトな対応でも繰り返し批判すれば単にその人を恨むわけです。

歴史修正主義系の議論も結構な量を見てきましたが*2、こちらの場合は元々歴史修正主義的な主張する人たちの言葉遣い自体が全然ソフトじゃなくて通説をインチキ呼ばわりしているわけで、こちらがソフトに対応したところでどうにもならないのです。

mitsu_bc さんの理論だと、それは初期消火に失敗したのではないか、ということになるのかもしれません。誰かがキツい対応をしたせいでヘソを曲げてしまったのだ、みんながソフトに対応していればそうはならなかったのだ、と。

しかし、歴史に if はないので断定はできませんが、全員がソフトな対応をしていたら、そういう人は、単に延々我慢ならない言動を繰り返していただけじゃないかと思います。個人差があってソフトな対応が効く人も存在するということは考えられますが、見知らぬ人同士の議論でそれを事前に識別するのは無理でしょう。

以上は僕の経験ですが、長くネットで議論の場に出入りしていた人は、みんなだいたい似たような経験をしていると思います。ソフトに対応しないのは経験から導かれた教訓に基づく態度なのです。mitsu_bc さんが可能性だけで訴えても、そういう人たちに対しては説得力を持たないということは認識しておいてください。

また、そもそも、オープンでフラットな議論の場で全員がソフトな対応をするということ自体期待できそうにないことです。このことについては後述します。

明確に否定しないことは不親切

一方で「デマ」認定しないことによる弊害があります。それは批判対象の相手ではなく、批判を読む第三者に対する弊害です。

僕たちの共通目標は言論によって「デマの影響力を減らすこと」です。ですから「デマ」を流す直接の相手を改心させるというよりは、対抗言論の影響力によって、不特定多数の第三者がデマを信じないようにさせたいのです。

実際問題、いわゆるニセ科学の議論にしても歴史修正主義の議論にしても、直接やりあっている人たちの片方が説得されて改心するということは稀なわけですから、議論のギャラリーを説得することに力点があるわけです。

ソフトな対応が徹底されることにより、ある主張が誰にもはっきり否定されなければ、その主張に対する異論は単に両論併記の片方というふうに見なされます。それこそ「見解の相違ですね」という扱いを受けます。これではデマの影響力を下げる効果が減ってしまいます。

歴史修正主義の手口についてでは、これを意図的にやる、つまり、次から次へと表面的にはまだ否定されていない論点や、初心者は既に否定されていることを知らないような論点を蒸し返すことで、批判者の影響力を削いで引き分けに持ち込む「議論の捏造」という手口を説明しました。ソフトな対応に終始するということは、そのような落とし穴に自ら飛び込んでしまうようなものです。

信じる人に大きな不利益があるようなデマは、はっきり否定するべきです。そうしないのはそれこそ不特定多数の第三者に対する「不親切」です。

ソフトな対応の不安定性

先ほど「そもそも、オープンでフラットな議論の場で全員がソフトな対応をするということ自体期待できそうにない」と書きました。これは、仮に mitsu_bc さんの理論が正しいとしても、現実的な影響力を持ち得ないのではないかということです。

自分の意見が強く否定されることで頑な態度を取る人は、否定されたこと自体に憤っているというよりは、人前で恥をかかされたと思うから頑なになるのではないでしょうか。プライベートな付き合いの中ではソフトな対応が功を奏することがしばしばあるのに、ネットではなかなかそうならないのは、そこに原因があると思います。

だとすると、大半の人がソフトな対応で批判していたとしても、誰かが強く否定するだけでその人は恥をかくのですから、ソフトな対応という戦略自体、不特定多数の論者の協調行動を前提にしないと成り立たないのではないでしょうか。

前回の「過剰攻撃の問題」とも関係しますが、小さなコミュニティではそういう戦略は可能です。実際に、学内コミュニティの小さなネットワークでのトラブルで、関係者が裏で示し合わせてソフトな対応で宥めるということをやって上手くいったことはあります。しかし、そのような協調行動は不特定多数の論者が随時参加してくるようなオープンな議論の場では不可能でしょう。

僕自身はどうしているか

自分で言うのもなんですが、批判的な意見表明での言葉遣いにはかなり気を遣っている方だと自認しています。ある程度気心の知れた人にはキツめの言葉を敢えて使うこともありますが、知らない人との対話では頭ごなしな否定はなるべく避けているつもりです。

一方で主張そのものについては明確に否定すべきところでは曖昧な表現は避けて、明確な否定的表現をするようにしています。「デマ」どころか「トンデモ」「デタラメ」のような表現も厭いません。

そういうメリハリがないと「ただの口が悪い人」あるいは逆に「優柔不断な人」「いい子でいようとする人」という印象を与えてしまって発言の力が削がれてしまうと思うからです。もっとも被害感情に苛まれている人には、こういう言葉遣いが慇懃無礼とも受け取られることもありますが。。。

おまけ: バカのバカたる所以とは

mitsu_bc さんのエントリでリンクされていた mitsu_bc さんのコメントについて。

ただ、これは一般論として聞いてほしいのですが、デマを流したり信じたりするのは、いわゆるバカが多いのではないでしょうか。 バカは理解する能力や意欲に欠けるからこそバカなのです。そうした者の理解を得るためには、親切丁寧な説明をする必要があるでしょうし、ときには相手を持ち上げて意欲を高めるようなことも必要かもしれません。
大事なのは「デマ」をなくすことでしょう? - mitsu_bcの日記

いや、その、、、mitsu_bc さんの立場でそんなにぶっちゃけちゃっていいんですか!?

まあ、それはそれとして、デマ魔みたいな困った人になってしまうような人の場合「理解する能力や意欲」の欠如が問題ではなくて、他人の意見から学び、自分の意見を修正する能力、そしてそのために必要な「未熟だが成長していく自己」という自己認識・自己肯定感が足りないのではないでしょうか。

あるいは、意見の内容そのものが、自分のアイデンティティに深く結びついている場合、頭のどこかでは間違っているとわかっていても、間違いを認めるわけにはいかない、全力で反発せざるを得ない、という場合もあるかと思います。

正直言って、そういう人を説得するのは無理です。少なくとも、ネットで出会ったばかりの赤の他人には無理です。友達と言える関係、あるいは自分に恩義を感じている人ですら、難しい。ていうか実際に議論で友達なくしたこともあるし。。。



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*1:佐藤文平事件とか。

*2:南京事件関係の論争とか、ホロコースト否定論の論争とか。