棄権は批判できるか

じゃあ、棄権は批判できないのかというと微妙。たぶん棄権一般を批判できるような理屈はないと思う。批判するとすれば個別の選挙について、

  1. 棄権はあなたにとって損だ
  2. 棄権は得だというあなたの計算は間違っている
  3. あなたの棄権は私にとって損になる

のいずれか(またはその組み合わせ)以外は説得力を持たないのではないか。1,2 は一種のお節介だけど、損か得かという土俵に相手が乗る限りにおいて説得力はある。でも、損得はどうでもいいという立場もありうる。選挙公約のどれが実現しようとしまいとそれによる損得の変動は許容範囲で損でも得でもどっちでもいい、あるいは基本的人権憲法で保証されてるからそれ以上の事について損得はどうでもいいや、とか。

3 は批判というよりは「お願い」。私のためにあなたは投票して欲しい、という話だから私とあなたの関係が問題になる。例えば「巨乳水着グラビアは青少年に悪影響を与えます! バスト85cm以上の女性の水着グラビアを禁止します!」なんて政策を掲げる候補がいるとしたら、眞鍋かをりは泣きついてきたファンのために対立候補に一票いれる気になるかもしれない。

あるいは得に筋合いがなくても、棄権するくらいだからどっちに入れてもいいわけで(利害の対立がない)、それなら私の得になるようにしてよ、投票所まで送り迎えするから、とまで言うなら説得力はあるかもしれない。ってそれじゃまるで創価学会のF票集めだな。

もっとも場合によっては「ただ乗り」批判という観点はあるかもしれない。誰かが負担した政治的判断のコスト(情報を集めたり知識を身につけたり)を棄権者たちは払わずに済み、その分のコストをビジネスなり言論なり恋愛なりの競争に振り向けるからアンフェアだとか。でもこれだと計算尽くでの棄権は批判できないし、コストをかけずに投票する人(他人の言いなりだったり、政治や候補者について無知なまま投票する人)も批判の対象になるので、棄権かどうかは本質的ではないのだけど。