「テロに屈しない」の意味

[id:rna:20041101#c] にて櫻井さん:

「屈しなかった」になるのかどうか、とのことですが、
目的が何であれ、要求が撤退である以上、
これを突っ撥ねた行為は「屈しなかった」になるのではないでしょうか?

かなりいいかげんにまとめちゃいますが「テロに屈しない」には三つの側面があると思うのです。

  1. テロリストの言いなりになったと思われない(名誉の問題)
  2. テロリストに利益を与えない(利害得失の問題)
  3. テロが再生産される仕組みに組み込まれない(構造的な*1問題)

櫻井さんの主張は 1 の意味で屈しなかったということで、それはその通りです。2 については確かに積極的には利益を与えなかったから「屈してない」とも言えるのですが、テロリストは人質を殺すことで利益を得ているので、評価に値するかどうか。王手飛車取りの手を打たれて王を逃がす(そして飛車を取られる)のが「屈しない」なのかと。

そして 3 の観点で言えばもうずっと屈しっぱなしです。今回の対応もその状態から一歩も抜け出ていません。自衛隊撤退、あるいは派遣延長の停止を決めていれば、名誉や利害の観点では「テロに屈した」ことになっても「テロ(テロを支える構造、テロ戦争のサイクル)には屈しなかった」と評価できたかもしれません。

テロリストによるテロの最大の目的は「政治的混乱」にあります。
つまり、この結果に対し何らかの政治的な影響が出れば、それが「テロの成功」を意味するモノだと考えます。

確かに動揺しないというのは大事です。でも目をそらせばいいというわけでもありません。何もしなければテロは終わりません。テロリストが「毅然とした対応」とやらに感銘を受けてテロをやめてくれるわけではありませんし、新たなテロリストの誕生を食い止められるわけでもありません。

そしてなによりもテロ戦争が続く事で利益を得る勢力(職業的テロリストなり軍需産業なりそれらと繋がった政治的勢力なり)にとってはテロが続いても政治的に安定して現状を維持する政策をとってくれて今後もずっとテロが続いてくれたほうがいいわけです。「テロの成功」はなくても「テロ成功」する輩は笑いが止まらないと。


*1:「構造的」とか言うなーって言われそうですが。