メンヘルはフーコー的(?)に解釈できるの?

うーん。

フーコーで通読したのが唯一『知への意志』という僕がとやかく言っていいのかどうかとも思うけど、このあたりの解釈は無理筋じゃないかなぁ。「似てるよね分析」を越えた論拠があるのかどうか。

メンヘル系」の Web での不特定多数に対する自分語りを促すような権力が存在するというのはちょっとピンとこない。歴史的にも精神分析の系譜の中に位置付けられるようなものではないのでは? 誰も語れとは言ってないし、語らざるを得ないような仕組みがあるのかというと怪しいと思う。

境界性人格障害に限って言えば、ネットが適度な距離をとりながら見捨てられ感を解消できる(ヤマアラシのジレンマが解消される)メディアとして機能しうる*1ことが自分語りを促しているのではないかと思う。

彼らが日常のコミュニケーションでジレンマを感じてしまうのが、僕らの社会にジレンマを感じさせる特別な仕組みがあるからなのか、それとも彼らの心の(もしくは脳の)感受性の問題なのか、あるいはその両方だとしてそれぞれの寄与分はどのくらいなのか。

今のところ機能不全家族の中で育ったことが心や脳の発達に影響して他者に対する基本的な信頼感が維持できなくなってしまう、という仮説が有力だそうなので、機能不全家族が増えるという部分は社会的な問題だけど、そこから先はどんな社会でも問題になってしまう部分ではないかと思うんだけど。

いずれにせよフーコー持ってくるなら彼がやってるような言説分析や歴史的な検証作業ををきっちりやらなきゃいけないと思う。


*1:無断リンク」はこの機能を阻害しかねないので忌避されるのかもしれない。