「記念碑指向」と「オブジェ指向」

Web に書き残された何か(以下「ログ」)というのは何にせよコミュニケーションの痕跡には違いないのだけど、それを書き残すという行為の目的は大きく分けると二つに分けられる。

  • コミュニケーションそのもの
  • コミュニケーションの痕跡そのもの

前者から生まれたログは「記念碑」のようなもので、後者から生まれたログは「オブジェ(芸術作品)」のようなものだ。

2ちゃんねるでも自アンでもいいけどネタ的に面白いログは「オブジェ」的なものであり、投稿者間のコミュニケーションというよりは、面白いログを作るという目標に向けた共同作業のたまものと言うべきだろう。

あるべきところにお約束のものがあり、時にはそこに微妙なズラシがあり、意表を突くレスがあり、そうやって作り出されたログの流れにこそ価値があるのであって、やりとりの相手の気持ちだとか人格だとかは顧みるに値しないし、自分だってそれを求めていない。だからこそ匿名で何の名誉も得られなくてもネタを投稿し素晴らしいログを作り出す人がいるのだ。

オブジェとしてのログもそれを残すことでコミュニケーションを志向しているのだが、その宛先は未来の見知らぬ人に向かっている。

一方で「記念碑」的なログはそれが作られたひとときこそが価値を持ち、ログ自体は思い出を呼び覚ますスイッチに過ぎない。思い出自体が風化したり、あるいは思い出はみんなの心に確かに生きているからという理由で、あるいは自分たちの思い出を見知らぬ人たちに汚されたくないという理由で、しばしば記念碑としてのログはさらりと撤去されてしまう。

記念碑としてのログが残される場合、残されたログによるコミュニケーションの宛先は過去にそのログに参加した人たちに向かっているか、未来の見知らぬ人に向かっていたとしても「かつてそこに我々がいた」ことを伝えるために残すのだ。

時折、「記念碑指向」の人と「オブジェ指向」の人が互いに相手の指向を読み違えて間の抜けたやりとりをしてしまうことがある。「ネタにマジレス」はその一つの形なのだと思う。



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