「ジェンダー」

[id:rna:20050918#p2] のコメント欄:

# rna 『解説どうもありがとうございます。解説を元にまた修正しました。「ジェンダー」と「男女共同参画」については僕としては「あり」じゃないかなとは思うのですがその点はまた別に書こうと思います。』
# 山口智美 『早速修正していただき、ありがとうございました。「ジェンダー」と「男女共同参画」についての論考、楽しみにしています。』

この件について。といっても山口さんに楽しんでもらえるかどうかはわかりませんが。。。

僕自身はフェミニズムの立場から見れば「部外者」ですしフェミニズムについても一般教養程度の知識しかありませんので、用語の用法の是非についてフェミニズムの運動論的な観点での議論にとやかく言える立場ではありませんが*1、運動で煽られる(?)側の立場からすると、「ジェンダー」のかわりに「性別役割分担」や「性差別撤廃」を使われるとかなり違和感があります。

僕は「ジェンダー」という言葉は「セックス/ジェンダー」の区別の片方という理解をしています。そしてこの区別は言うと性のありかたにおける(「平安の祈り」[id:hotsuma:20050608#p2]で言うところの)「変えられないもの/変えられるもの」であるとも思っています。

これに対して「性別役割分担」や「性差別撤廃」という言葉は、上のような区別があり「変えられるもの」があるということを前提にしていて、この前提を共有していない人にいきなり言うと「男と女は違うから当然だ」「差別じゃない、区別だ」などという安易な反発を招いてしまうな、と思います。僕自身「セックス/ジェンダー」の区別と共に社会構築主義的な考え方に馴染むまではそういう反発にも一理あると思っていましたし。

また、差別というのは大抵する側には差別した覚えがないわけです。差別的な構造に基づく既得権益を何の疑問もなく当然自分が手にすべきものだと思い込んでいるので、「差別だ」と言われると強盗に脅されるような恐怖を感じるのです*2。だからまず差があって当然という感覚の自明性を崩して地均ししないと「差別」「平等」といった言葉が通じないのです。

僕は今の日本ではその地均しが済んでいない状態だと思います。多くの人は「人権団体が怖いから」表向き差別していないフリをしているだけなんじゃないかと。もっとも本当に怖いとも限らなくて、思考停止を正当化し合うのに「怖い人権団体」が持ち出されているだけかもしれませんが。差別語に対するメディアの機械的な自主規制なんかを見ているとそのように感じます。

また、既に多くの人たちの努力によって近代的な人権感覚からは露骨に差別的と思われるような制度や習慣は減ってきているだけに、普通より敏感さがないと気付きにくい差別についての告発が難しいという状況があると思います。普通に鈍感な人にはいいがかりにしか聞こえなかったり、実際少なからず存在する過敏な人による言いがかり的な告発というノイズに紛れてしまいます。すると「まだ差別とか言うのかよ!?」「逆差別じゃないのか!?」みたいな反応を招いてしまうわけです。

以上のような事情から「ジェンダー」という外来語をそのまま(あるいは多少意味をずらして)使うのが最適かどうかはともかくとして、まず性のあり方について「変えられないもの/変えられるもの」という区別を指すことに特化した言葉は必要だと思います。「差別」を告発する前に(あるいは同時に)それが差別であることに気づけるようにする必要があります。「男女共同参画」も、いかにもお役所言葉っぽい意味不明瞭さはともかくとして、告発的な言葉を避けるのには意味があると思います。

もっとも、そういう言葉遣いを逆手に取ると「差別撤廃」「平等」に対してあからさまに反対せずに差別肯定的な事を言えてしまうという副作用はあるかと思いますが、これはこれで、「ほうほう、「差別撤廃」や「平等」には反対しないのね?」と言質を取った上で次のステップに進めばよいことではないかと思いました(甘いですか?)。



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*1:にも関わらずとやかく言ってますが。。。すみません。

*2:この恐怖心はフェミニズムを「女権拡大主義」などと訳したり、フェミナチなどという言葉を使ったりするところに端的にあらわれていると思います。