ネットの言論は「一方的」? (その2)

[id:rir6:20051121:1132563802] について。

例を挙げて説明しましょう。例えば「中央公論」とか「論座」とか*1での議論の場合、まずその議論は同一の雑誌によって行われますから、その意見へのアクセスのしやすさ(閲覧者にとっての)は殆ど同等なものですし、また編集者も同等なものになるよう努力するでしょう。出来れば双方の意見を同一号に載せ、それが出来ないとしても、ある片方の意見だけを載せるのではなく、かならずそれと対立する学者の意見を要約でも載せようとする。

これがまず幻想、というか勘違いではないでしょうか。何らかのテーマで特集を組む場合はそうすることもあるでしょうが(その方が読者にウケるから)、通常の記事で誰かへの批判があったからといっていちいちその相手の反論を同じ号に載せることは普通はありません。載せるほうが異例です(と、聞き及んでいます)。というのは、批判する相手によっては、批判者の原稿を見せるのは事前検閲のような効果を持ってしまうからです。

そんなわけで、反論を載せるとしても次号以降というのが通常だと思います。では、批判された側の反論が次号以降に載ることは保証されているでしょうか? これもノーだと思います。反論の内容が一定の基準を満たしていなければ載せないということは十分ありえます。査読のある論文誌なら批判に対する反論だろうとなんだろうと査読にパスしなければ載りません。

また、rir6 さんの基準だと単行本や講演会の多くは「一方的」ということになってしまいます。これでは「反論の機会」というものを狭くとりすぎではないでしょうか。ちなみに僕は連絡先を明記していて、連絡に応答する用意ができているなら「一方的」とは思いません。中西氏の件について言えば、松井氏はまず反論を掲載(もしくはリンク)するよう中西氏に要請して、それが拒否された時点で「一方的」と非難すべきでした。

もちろんそれらはあくまで「したほうが良い事」で「しなければいけない事」ではありませんから、完全に公平になるようには出来ないわけですが、しかし公平にしようと努力はしている訳です。そして事実そのような努力によって雑誌などマスメディアでの議論は社会でもある程度の地位を認められているのです。

これも誤解だと思います。テレビやラジオの場合、電波の周波数帯域という公共財を排他的に利用する性質上その手の公平性は求められますが、新聞や雑誌などのメディアでは事情が異なります。それでも寡占化の激しい分野(例えば日刊の全国紙)では公平性に対する読者の圧力は強くなりがちですが、これはネットの場合はあてはまらないのではないでしょうか。

ちなみにマスメディア*1の優位は純粋に情報の質の高さにあると思います。理由は簡単で、プロがご飯食べるために競争しているため、質の向上にコストをかけるインセンティブが強いからです。もちろんコストがどれだけ「質」の向上に向けられるかは読者の民度次第ではありますが。


*1:ネットか紙かではなくマスメディア的なビジネスモデルで動くメディアということ。