子猫を殺すこと自体が問題というよりはその論理がよくわからない。「毒食らわば皿まで食うべし」っていうこと? べつに食わなくてもいいじゃん、皿まで。食いたいんか皿?
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
なにをもって「本質的」というのか知らないが、それを言うなら「産んだ子供を育てること」も同じくらい本質的ではないか。
「人間の都合で奪いとっていいものだろうか」とか言うなら猫と関わり合いにならなきゃいいのに。ていうか、奪いとっていいんだよ。それが人間にとっての本質的な生なんだから。奪い取る能力があり、奪い取る意志を持てるという意味で。
だから人間の価値観で善し悪しを判断すればいい。ヘンに自然とか言わなくていいの。「本質」を恣意的にトリミングしていいなら、自分が一番したいようにやればいいだけ。
そして人間の自由という意味では子猫を殺す権利はあると思う。それは改正動物愛護法に絡めて以前論じた(なぜ猫を殺してはいけないのか)。だから妙な理屈をこねずに「子猫を殺すのが好きだから殺す」と言われたら僕は反論できない。
でも坂東眞砂子の理屈は妙にねじくれていて納得できない。むしろ本当の動機を隠蔽してるんじゃないかと勘ぐってしまう。ねじれた偽善者なのか本物のサディストなのかあるいは人工中絶反対主義者なのか等々。
追記: マゾヒズム?
ブクマコメントより。
aozora21 むしろMかと…。行為そのものについては、罪深さを実感したいのだろうと思いました。明文化するのは作家の使命かもしれませんが、公表(しかも新聞に)した時点で別のものに変化したような気がします。
なるほど。。。セックス・出産・子育てのうちで、なぜ出産を本質に含めて子育てを非本質的と考えたかよくわからなかったのだけど、ひょっとして坂東氏は出産も快楽だと思ってるのかな? マゾヒスト的に?
作家としてああいう形で「カミングアウト」したはヌルいというのは同意。