死の実感

「実感」なんだから死ななきゃわかんないんじゃないの? ってのはこの際おいとくとして、x0000000000 さんのエントリを見て思ったこと。

坂東氏の評論だけど、引用されてる部分だけでも突っ込みどころ満載。

  • 都心部はどうか知らないけど一般人が居住してる地域では獣の死骸(主に猫)は「まず見ない」というほど珍しいものではない。
  • 行政の管理が厳しい犬はともかく、野良猫の数は減っていないのでは? 殺処分数の推移を見るとここ二十年程は横這い。
  • 死骸がすみやかに処理されるったって、公道で轢かれた死骸などは一日二日放置されるのはよくあるが。
  • そもそも昔は放置されていたの? 適当にそのへんに埋めてたんじゃないの?
  • 少年犯罪の動機でただ「殺してみたかった」なんてのは一般的じゃない、というか豊川市の事件くらいじゃないの? あれは病気の問題もあって一般化できる話とは思えない。
  • 「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」って因果関係をまるで説明してないし。

そもそも死骸やら他人の死やらをいっぱい見ると「死の実感」が得られるの? むしろ、(おそらく生得的に備わっている)根拠のない死そのものへの嫌悪感や恐怖感が麻痺しちゃうだけじゃないの?

この際おいとくって言ったのやっぱり蒸し返すけど、そういうのって「死の実感」でもなんでもないよ、きっと。ていうか死の「実感」なんて別にいらないし意味もないと思う。

誰かを殺せるってことは既にその誰かの生に共感できないってことで、その状況で「死の実感」とやらが何かの歯止めになるとも思えないし。

いや、「死の実感」というのはそうではなくて、他人に死なれた時の喪失感*1のことなんだ、というのなら、見知らぬ動物やら赤の他人の死では実感しようがないし、共感だって死んだ人にではなく誰かに死なれて悲しむ人に対して、だろう。

あー、なんかまとまんないけど、とにかく、生きてる人が死について語るのって、童貞がセックスを語るみたいで、なんか妙だよね(投げやり)。


*1:あるいは解放感、あるいはそれに対する罪悪感、等々。