中川八洋と宮台真司について

mushimoriさんからのトラバへのお返事を兼ねて。

チキさんが発掘した『諸君!』の小田・中川対談に対する僕の反論の件についてだと思いますが、あれは宮台氏が酒鬼薔薇に共感していないという話ではなくて「宮台氏は酒鬼薔薇に共感して彼の声明文を中学生のバイブルと位置付け学校解体、社会解体を指令している」という中川八洋氏の見解を指して、んなわけあるか馬鹿そうではありませんよ、と言っているのです。

件の記事では引用が断片的でわかりづらいかもしれないので、もっと長く引用してみます*1。というわけで、中川氏のしょっぱなの発言のノーカット版:

中川 『文藝春秋』三月特別号が「少年A 犯罪の全貌」と題して、神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年Aの検事調書を七通、ほぼ全文掲載し、目下大きな反響を呼んでいます。私もさっそく十日の発売日に通読しました。この事件に関しては発生時点からさまざまな論説がなされまして、多くの学者、作家、評論家たちが、各メディアにその所感を発表してきたわけですが、私は今回詳細な少年Aの供述に触れて、まっさきにある一人の人物が頭に浮かびました。今日は、この人物について小田先生と、じっくり語りあってみようと思っています。
この人物、言うまでもなく宮台真司氏のことです。宮台氏は、このAについて種々のメディアで積極的に発言しているわけですが、まず私が注目したのは、昨年十一月に彼が刊行した『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社)という本です。表題になっているこの「透明な存在」というのはもちろん、少年A―酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文から借用したもので、表題通り、この本は一冊まるごと少年Aの事件を中心に据えて彼の従来の主張を弁じ立てております。巻末にはわざわざ資料として事件の経過と声明文全文を掲載するという徹底ぶりです。
実は、宮台氏はこの酒鬼薔薇という殺人鬼に対して大変な共感を持っているんですね。彼の言葉に従えば、犯行声明文は中学生にとっての聖典、つまりバイブルであるとなる。
そもそも彼の社会学は、日本全体の社会解体を最終目的としているようですが、その有効な手段として学校解体を狙っていて、この事件を格好の材料にしようと彼は考えているようです。酒鬼薔薇の登場をきっかけとして、いまこそ全国の中学生は学校解体に立ち上がるべきだ、とさかんに呼びかけている。
そして、そうした彼の奇怪な論調の大前提となっているのが、酒鬼薔薇聖斗精神障害者であることを否定しよう、という考え方なんですね。だからこそ、私は、『文藝春秋』で少年Aの供述を読んで、宮台氏の言論のその大前提がついに崩れたと感じたわけです。供述調書を虚心に読むかぎり、やはりAは正常な人間ではありません。単なる殺人鬼と言ってかまわないと私は認識しました。
現在、社会解体運動のヒーローにまでなりおおせている宮台氏の馬脚が、この調書の公開でとうとう露になった、と正直溜飲が下がる思いでした。
小田晋中川八洋「ボクちゃん社会学宮台真司はこれだけキレている」『諸君!』1998年4月号 p68-69

この後もおもしろ発言満載なのですが、本当にきりがないので、有名な(?)「ルーマンフランクフルト学派」発言を引いておしまいにしておきます。

中川 宮台氏は母親の存在を積極的に有害だと言っています。「遊び場や遊び道具や遊び友だちを選ぶ母親は障害になる」(『透明な存在の不透明な悪意』一〇一頁)と書いています。母親がいることによって子供にハンディキャップを負わせることになる。子供は子供同士だけでコミュニケートした方がいい、母親は邪魔だというわけですよ。
こうした宮台氏の社会学がどこから来たかと言えば、これは簡単な話で、彼はフランクフルト学派ニクラス・ルーマン社会学をそのまま使っているんです。ルーマン理論というのは凄まじくて、親子間の法規範や道徳規範の伝達はいけない、とはっきり論じています。道徳そのものも子供たち同士のコミュニケーションの中で初めて成立するという理論で、ということは道徳そのものは子供同士では作れませんから、道徳がなくなるわけです。ルーマン社会学を宮台氏が使っているということは、つまり、この世の中から道徳律を完全に抹殺するのが彼の目的だということです。
たとえばルーマンの「社会学的啓蒙」という論文、これが宮台氏にとって教典の一つだと思います。
小田晋中川八洋「ボクちゃん社会学宮台真司はこれだけキレている」『諸君!』1998年4月号 p78


*1:たまたま手元のスクラップ帳に『諸君!』の切り抜きが残ってました。