「逃げろ」ということ

「逃げろ」というメッセージについて。梅太郎さんとこに書いたコメント。

逃げろというのは正論なんだけど、逃げ場があると信じられるだけの余裕があるなら自殺しようとは思わないんじゃないかな。。。状況にもよるけれど、社会全体、あるいはこの世界が自分を裏切っていると思ったら、一息つける場所に逃げるという発想はない、というか、逃げる=自殺、になると思う。
ちなみに金八先生は死ねばいいと思います。誠心誠意そう願います。

他人を信じられなくなった人が逃げた先に希望があると信じられるのか、ということ。特に中学生くらいだと家庭と教室が世界の全て、あるいは世界の縮図に見えるわけで。

厳しい事を言えば、「逃げろ」というのは逃げ場を提供できる人、具体的な逃げ場を指させる人、被害者の手を引いて逃げ場に連れていける人、社会に少しでも多く逃げ場を作るために努力する人、といったような人たちだけが言っていいことだと思う。

そして、逃げ場があれば虐待そのものは問題にならないのか? という疑問も当然ある。救急病院を整備すれば飲酒運転を放置してよい、という理屈にはならない。

追記: このあたりも参考に。

Dryad さんのこれ。

日本の教育あるいは社会の構造的問題、というのは確かにあり、個人的にはそこが「落としどころ」だとは思うが、、、

正直言ってこの事件が起こってから、というよりは、それに対する世間の反応を見て以来、胸の奥に眠っていたドス黒いものが再び沸き上がってくるのを感じて冷静ではいられない。悲しい事件が続くと、こういうことはあってはいけない、と皆口を揃えて言う。口だけかよ、とも思うが、人は弱いもの、本気でなんとかしなくてはと思っていても、何もできない人が大半で、自分だってその一人だと思うと、一方的に非難できるものでもない。何もできないことへの罪悪感が白々しくも勇ましい言葉になるということもあるだろう。しかし、例の手紙への反応はそれですらない。あってはいけないのは自殺であり、あるいはこの種の告発であり、「世間を騒がせる」ということであり、その原因となった虐待ではない、と多くの人がそう思っていること、そう思っていることを露骨に表明すること、また、その事に何の躊躇いも感じていないらしいこと。それらのすべてが胸に突き刺さる。そして