合理主義について

こないだの、

ちなみに僕は合理主義者なので神は信じません。
神の存在について(児童小銃)

これの評判が悪い。注釈にも書いたとおり「合理主義」は俗に使われる一般的な(最大公約数的な)用法として使ったつもりだが、どうもそうでもなかったかも。要するに「行為選択において神の存在を考慮しない」ということを言いたかったのだが、改めてオレオレ定義の「合理主義」について説明すると、

  • 主義(イズム)である
  • あらゆる行為に根拠・必然性を求める
  • コストパフォーマンスを重視する

という感じだろうか。これはむしろ功利主義と言うべき?

「合理」は企業の「経営合理化」みたいな用法のそれに近い。あくまでイズムであり「合理」が自己目的化しているという点で矛盾を孕んでいる(合理主義を貫くこと自体の根拠・必然性は問えない)。一般に合理的であれ、というのは最適化問題を解け、ということと同義だと思うのだが、何を最適化するべきかというあたりは空欄になっている。上のオレオレ合理主義では最低限のコストで最大限の快楽を得るという意味で最適化を目指すのだが、何がコストで何が快楽かということ、つまり価値観が空欄になっている。

(オレオレ)合理主義には、価値観を問わない、どんな価値観に基づいて最適化するかについてフリーハンドを残す、というメタ価値観が組み込まれている。なぜなら価値観を固定するような根拠・必然性はないから。しかし、宗教を信じるというのはそのようなフリーハンドを捨てる事に他ならない。もちろん宗教だって選択できるというのは現実にそうなのだが、それを意識するようならそれは信仰とは言えないのではないか。少なくとも一度は(オレオレ)合理主義を捨てなくてはいけない、両手を合わせてフリーハンドを捨てなくては信仰とは言えない、と思う。