Re: 別に「テロ」でいいんじゃね?

先日のエントリ「別に「テロ」でいいんじゃね?」について。

Apeman さんのコメント:

Apeman 『べつに嬉しいわけじゃないですよ。「テロ許すまじ」ということでガンガン報道しておいて、その後仮に政治的背景がまったくないことがわかって尻すぼみになったりしたら「一体殺された市長はどうなるの?」と思ったのが一つ。定義に拘る必要がないのなら、「殺人」で現時点では十分じゃないですか。そして「テロとの戦い」というフレーズがどのような帰結を産み出したかを我々は現在進行形で目撃しているから、というのがもう一つです。』

新聞各社はあの事件そのものに政治的背景を疑って「テロ許すまじ」の論調になったわけではなくて、敢えて「テロとの戦い」の物語に落とし込むことで、事件を社会の糧にしようという意図があってああいう論調で語ったのだと思いました。あくまで推測(邪推?)ですけれど。

そういうやり口が肯定しがたいというのはわかりますし、僕もそう思いますが、そういう論調に対して、テロかテロでないかという視点でカウンターを当てるのは果たして有効なのだろうかと思います。僕はむしろ「テロ」の概念を解体して薄めていって、「テロ」を絶対悪のレッテルとして使いにくくした方がいいんじゃないか、と。

大事なのは、事件のショックから生まれた、これからどうなるの? どうすればいいの? という人々の迷いをケアすることで、単純な知的誠実さはこういう時に無力です。だから、メディアの言いすぎ・飛ばしすぎそのものを、知的誠実さの観点から批判するのは筋違いだと思います。

Apeman さんや bewaad さんの批判は単にそれだけではないけれど、それでも迷える人へのメッセージは「情報が揃うまで黙って耐えて待て」という程度のもので、そりゃあ正論だけど、それで待てたら苦労はしない、というかそういう人は最初から迷わないような。

角田さんのトラバ:

さて、「テロ」という言葉を巡ってなのだが、なんばさんの意見*7は被害者の側(被害者になるかもしれない側)の「恐怖」にフォーカスしている。そもそも「テロ」というのは「恐怖」という意味なので、充分に理解できる。ただ、私が疑問を呈したのは、そんなに早急に「テロ」と決め付けなくてもいいんじゃないかということだ。幸か不幸か、犯人は自爆せずに生け捕りにされたわけだから、その言い分を聞けるわけだし、「テロ」かどうかを判断するのはそれからでも遅くないんじゃないか。勿論、「公共的な空間」がダメージを受けたということは事実だ。ただ、問題なのは政治家などによる〈アフター・ケア〉なのではないかという印象も受けた。

思い出したのは孔子の話。『史記』の「孔子世家」、『論語』の「述而」(第22節)、「子罕」(第5節)。孔子は襲撃されたときに、大見得を切る。自分は超越的なる「文」を継承している。天がそれを断絶させようとは意思していないのだから、全然怖れるに足りない。大体そんな感じだ。私はこういうしゃっちょこばった孔子よりも、『荘子』の「秋水」に登場するクールでタオイストな孔子の方が勿論好きなのだが、今回、日本の政治家たちはこれくらいの大見得を切るべきだったのではないかと思う。
正しいことについて、そして「テロ」を巡って

ああ、そうか! こういう時に檄を飛ばすのは政治家の役目なんだ。マスメディアじゃなくて。

なのに防衛大臣が「共産党の候補者が当選してしまう」とか言っちゃうこの状況はなんなんだと。

sk-44 さんのトラバ:

玄倉川の岸辺 狙われたのは「行政官」としての長崎市長

なぜマスコミが「暴力団」と「行政介入暴力」の脅威から目をそむけ、「民主主義」「言論の自由」「平和運動」のことばかり書き立てるのか。あてずっぽうに想像してみた。

行政介入暴力を問題視しないのは左翼思想のためだろう。

「権力」を悪としてそれに対抗する「市民」を善とする単純な左翼思想(情緒的アナーキズム)からすれば、横暴な「権力」に対抗するため「市民」が威嚇したり物理的な暴力を行使するのは正義である。「市民運動家」が役所に怒鳴り込んだり行政執行を物理的に妨害する権利を守るため、エセ同和の暴力団員が似たようなことをするのを見逃しているのだ。

「なぜマスコミが「暴力団」と「行政介入暴力」の脅威から目をそむけ、「民主主義」「言論の自由」「平和運動」のことばかり書き立てるのか。――私の見解から記すなら、事が行政介入暴力である以上、要請さるべき対応というのは、粛々と法治の執行を適正化、すなわち厳格化するよりほかにない。

言うまでもなくそれは、警察機構とそれと連携する司法の活動と権限の結果的な拡大を意味する。それはちと、として言及が抑制されてしまうということです。むろん、それはそれでひとつの見解であり態度であり見識であるとは思いますが、そうした見解と態度と見識については明示するべきとも思う。不作為の結果としての的外れな言論に拠って示すのではなくて。
銃撃――補記

孫引きした部分の元記事はサイトメンテナンス中で読めていませんが、「行政介入暴力」に政治的パフォーマンスまで含めてしまうのは、僕のユルいテロの定義でも無理があると思う。暴力の恐怖といっても「「市民運動家」が役所に怒鳴り込んだり」まで怖がってちゃ怖がりすぎ。プレッシャーすら感じたくないというのなら、それはほとんど職務放棄と言っていい。本当に暴力的なものは単に公務執行妨害で処理できるわけで。むしろ既に本当に暴力的とは言えないものも公務執行妨害として扱われているし。

とはいえ、そいうような議論を避けて「民主主義」「言論の自由」で誤魔化すのはダメだというのはその通りだと思う。一方、掛け声以上のことをしようとするなら、つまり制度を変えることで対応しようとするなら、リスクコミュニケーションが不可欠で、単に危険性だけを訴えて、制度を変えれば危険でなくなります、みたいなのはダメです。


あいかわらずまとまりませんが、今日はこんなところで。