自由の代償

mascka さんのThe Economist すごすぎ。を見て思い出したこと。

戦後アメリカの核兵器原子力政策を批判した、スチュワート・L・ユードル『八月の神話』(参照:id:rna:20070805:p1)の一節。原発(増殖炉)を管理し続けるコストは原発で得られる低コストのエネルギーの代償として十分見合うものではないかという議論を批判してユードルはこう言う。

われわれに対して、開かれた民主社会の条件である「無秩序」や、強権的な行政機関に対する反乱の権利を「安定」のために「永遠」に放棄する道を示唆したワインバーグは、ある人物の言葉を借りれば、「ファウストが契約の結果たどった運命を忘れていた」ということになるのかもしれない。
スチュワート・L・ユードル『八月の神話』 p286

増殖炉の推進派だったアルビン・ワインバーグ博士は核管理のために「長期安定体制を確立して公共機関による永続的な監視を行う必要が」あると主張したのだが、ユードルは、それは「反乱の権利」を放棄することを意味するから認められないというのだ。

これは自由な社会とは、核管理の引き継ぎが不可能になるほどの混乱した状況、つまり激しいテロや内戦が続くような状況になる可能性を意図的に残すような社会であるということだ。

原発に限らない。この理屈で言えば、社会それ自身が安定していなければ維持できないような高度な制御を要求するようなシステムに依存する社会は、そのシステムがいかに経済効率を高め、人々の命を救い、人々の生活を豊かにするとしても、そんな社会は自由な社会ではありえず、認められない、ということだ。自由は人の命より重いということなのか?

僕は一応自由主義者のつもりでいたが、自由が尊いのはそれが人間に幸せをもたらし人間が幸せになるチャンスを与えるからだと思っていた。絶対的貧困下での自由は人間をやめる自由でしかないし、自由を行使する能力を持たない子供(知識や経験が貧困である者)は無闇に自由にさせても不幸になる。だから経済や文化の発展は自由の前提だと思っていたし、自由の目標でもあると思っていた。

あるいはユードルが言っているのは「安全を人質にとられて自由を奪われることで生まれる不幸の期待値」が「反乱の権利のために社会に残された脆弱性や非効率のために生まれる不幸の期待値」より大きいということなのだろうか。



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