ポルノ規制論について

ポルノを見ると性欲が刺激されて性犯罪に及ぶという理屈は、刺激を受けると男はサカリのついた犬みたいに我慢できなくなる、少なくとも一部に、しかし少なからぬ割合で、そういう人がいる、ということを前提としている。だから連帯責任みたいに一律禁止という話になる。

沖縄の事件でも騒ぎになったが、強姦事件が起きると「被害者にも落ち度がある」ということを言う人が必ず出てくる。「男はそれを我慢できないのだから女が注意しないといけない」というわけだ。これに倣えば犯罪の助長を根拠としたポルノ規制論は「男はそれを我慢できないのだから国家が規制しないといけない」ということになる。

個人の、それも弱い立場の人に自己責任を押しつけるよりは、国家が規制した方がマシには違いない。しかし、そもそも「男はそれを我慢できない」のだろうか?

現状として「我慢していない(人が少なからずいる)」というのは事実だとしても、それは受け入れるべき「変えられないもの」なのだろうか? むしろ、それは変えてゆくべき「変えられるもの」であり、ポルノはその手段なのではないか? 我慢する手段(代替物)というよりは、欲望のあり方を現実逃避的な方向に変えることで犯罪から遠ざかるための。

妄想することと妄想を現実化することは違う。妄想させないようにするのは困難だし、心の自由を奪うことでもある。だから妄想の現実化を抑止したければ妄想と現実の間の隔たりを大きくする方向で対策するべきだ。ポルノ規制は妄想することを妨害するだけで妄想と現実の間には作用しない。