「水伝」が道徳的になぜダメか

先日のエントリに書いた「道徳的にもなぜ人に優しくするべきなのかを考えさせるという意味では完全に的外れ」という点について。

「なぜ人に優しくするべきなのか」に道徳的に答える場合は、相手の気持ちを考えようと共感性に訴えたり、社会関係を円滑に保ちたいでしょうと功利的に説得したりするのが常道だろう。いずれにせよそのテーマで社会性ということを抜きで教育するのは的外れだろうということだ。

「水伝」による道徳教育というのは、だいたい以下のようなもの。

  • 汚い言葉を浴びせると水の結晶は汚い形になる
  • 人体の大部分は水でできている
  • ゆえに汚い言葉を浴びせられた人の体に悪影響を与える
  • 人の体を傷つけるのは当然よくない
  • だからきれいな言葉を使いましょう

ただし、後半は「よい言葉を使うと相手の体によい」というふうにポジティブにしめる方向のものの方が多かったかも。*1

ツッコミ所はひとまずおくとしても、これは結局のところ言葉は人を精神的に傷つけることがあるという概念を迂回して、「他者への配慮」を「他人の身体を傷つける事に対する抵抗感」に短絡することで「きれいな言葉を使う」という行動だけを条件付けしているとしか思えない。迂回した部分にこそ共感性や社会性といった道徳的に一番大事なテーマが含まれているのだから、そこを迂回してどうするんだと。そういう意味で「水伝」による道徳教育はダメだと思った。