トラバのあった、『属性による安易なくくり』を行わせるモノ (tasoiの日記帳) にお返事。
まずひどい誤記があったので訂正します。
元々くくりをでかくしてるのは増田の人とか夏野氏では。
http://b.hatena.ne.jp/rna/20080711#bookmark-9258226
夏野氏じゃなくて濱野氏でした。お詫びして訂正させていただきます。
で、これは濱野氏の記事「「ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」」を念頭に置いてます。
tasoi さんは増田の人(自称「ハゲのおっさん」)は関係ないんじゃないかと言いますが、「善意悪意を問わない率直な意見の可視化の流れ」が「一般市民」に向けられたことを「パラダイムシフト」と表現し、それが暴力的に作用する可能性は否定できないとしながらも、その流れは止まらないであろう、と最初に主張したのは増田の人で(参照: ハゲのおっさんから一言(追記2回目有り))、濱野氏の記事は上の議論を敷衍したものです。
この「パラダイムシフトが起きた瞬間」はニコニコ大会議にオフラインあるいはオンラインで参加した一部の人たちによって支えられたのでしょうが、「流れ」という言葉にもあらわれているように、それは偶発的なものではなく、ニコニコ動画のカルチャーの必然と捉えられています。つまり、「パラダイムシフト」の現場に立ち会った参加者と、それ以外のニコニコ動画コミュニティの人たちは入れ替え可能なのです。
そしてそのカルチャーはニコニコ動画が実装したアーキテクチャに支えられている、というのがお二人の見立てです。これは言い換えれば、このアーキテクチャの中に誰を放り込んでもそのようなカルチャーを支えるコミュニティができあがるであろう、そしてコミュニティは後戻りできない「パラダイムシフト」を体験するであろう、ということでもあります。本当にそうなのかはわかりませんが、そうだと仮定しましょう。
だとするなら、「ニコ厨」などという括りはでかすぎるどころか、むしろ小さすぎるくらいです。この仮定に従えば、人間というのは、ニコニコ的なアーキテクチャに適応すれば「善意悪意を問わない率直な意見の可視化」に参加する、そういった生き物なのですから。
では、逆の意味で「ニコ厨」なんて括りはダメじゃん! と言うべきでしょうか? 「ニコ厨」に罪があるとしたら、それは人間の原罪みたいなもので、「ニコ厨」批判は結局自分に返ってくるしかないのでしょうか? まあ、ブクマで「しねばいいのに」とか言ってるのを見るとそんな気にもなってきますが。。。
しかし、ニコニコ的アーキテクチャに身を投じるかどうかは個人の選択であり、その選択がニコニコ動画の盛り上がりの一端を担い、そのカルチャーを支えているのです。そういう選択をした人にはそのカルチャーの負の面に対してもいくらかの責任があるはずです。「パラダイムシフト」を口にしようとしまいと。もちろん、死ななきゃいけないほどの責任があるわけじゃないですが。
問いに対するお返事
ひょっとするとだけど、
『これはいじめである。』
『彼らはニコニコ動画の「新しさ」を挙げていじめであるとの批判を相殺しようとしている。』
『このことについて批判を相殺しようとする者は組織防衛的であるので、ニコ動およびニコ動ユーザ全体を対象として物申すことは致し方ない。』
みたいなことを、当たり前の前提としちゃってませんか。
『属性による安易なくくり』を行わせるモノ (tasoiの日記帳)
まず『これはいじめである。』について。あれが「いじめ」かどうかは議論がありますが、「パラダイムシフト」論とそれに対する批判の双方において、「これはいじめである」は事実認識として前提にされているのではありません。ニコニコ大会議の事件そのものは横に置いても、いじめ的なことはありうるということは、「パラダイムシフト」論周辺では賛否に関わらず共通認識になっていると思います。
次に『彼らはニコニコ動画の「新しさ」を挙げていじめであるとの批判を相殺しようとしている。』について。これはちょっと違います。「彼ら」は「パラダイムシフト」論者を指すと思いますが、「相殺」は論者が議論の中で「批判」に対してしているのではなく、ニコニコのカルチャーは「いじめ」のリスクを「新しさ」の価値で相殺することで受け入れていて、論者はそれを肯定的に評価している、ということだと理解しています。
次に『このことについて批判を相殺しようとする者は組織防衛的であるので、ニコ動およびニコ動ユーザ全体を対象として物申すことは致し方ない。』について。上述のように「相殺」しているのはニコニコのカルチャーを受け入れる人たちの集合的な態度であるので、個々のユーザは「相殺」していないとしても、カルチャーを支える一員としての責任は道義的にはあるでしょう。そういう意味でニコ動全体が「相殺」的な価値判断に対する批判の対象になりうると考えます。
二つ目の質問については、そもそも一つ目の質問のような話を前提にしてません、というのが回答になります。もうちょっと敷衍して何か書こうかとも思いましたが長くなるのでとりあえずそんなところで。