グロスマンの著書は前著の『戦争における「人殺し」の心理学』しか読んでないのですが、ゲーム規制の話はあっても銃規制の話がないよという件について。
それでもやはり、著者らの議論にはある種の合理主義がはらむシニシズムを感じずにはいられない。日本に住む者にとっては、警察官の武力行使に関する議論からそれを感じとることはそれほど難しくないのではないか。著者らは“暴力的”なゲームが大量殺人につながる*1と主張する一方で、アメリカ社会に氾濫する銃器についてはまったく問題にしようとはしていない。銃規制を行なえば警察官が生命の危険にさらされる場面は減り、警察官が殺人を強いられる場面も減ることが当然予測できるというのに、である。
「殺人学」のシニシズム - Apes! Not Monkeys! はてな別館
前著でグロスマンは、合衆国憲法修正二条(武器の所有と携帯の権利)も制限されている(強力な武器の所有や携帯が認められていない)のだから修正一条(言論の自由)もある程度は制限してよい、故にゲーム規制もあり、と主張していました。このアナロジーを踏まえると「氾濫する銃器」を問題にするなら「氾濫する言論」も問題化しうるというかなり無茶な話になってしまうので、グロスマンとしては銃器の流通量を規制するという発想には抵抗があるのかもしれません。
銃器所持の権利は元はと言えば国家の脅威に対抗して市民の安全を守るための権利ですから*1、犯罪抑止のための銃規制というのは「国家より市民が怖い!」という発想であって、自由主義・民主主義の立場からすればこれはこれでグロテスクです。*2
もっとも市民に小型武器の所持が認められたくらいで正規軍に対抗できるような時代はとうの昔に終わっていて、武装した市民にできることといえばせいぜい要人の暗殺くらいですが、ブッシュ大統領を在任中に暗殺できなかったアメリカ市民が革命権とか言っても笑っちゃいますよね。あ、まだ20日ほど残ってますか…