「福島差別」の問題について

「福島差別」の問題について。「福島差別」の本質は被爆者差別であって、福島の安全性(被曝線量が少ない・健康への影響がないこと)を訴えるのはかえって差別を温存するのではないか、みたいな批判があるのだけどイマイチ納得がいかない。

たとえば原発事故後にずいぶん流れたデマで、福島の人たちは5年後(とかそう長くない期間中に)に病気(ガン・白血病等)で死ぬ、というのがある。長く生きられないとなると人間関係や就労の面で不利な扱いを受けるけど、それが不当なものかというと微妙。

もし本当に5年しか生きられないのだとしたら、そういう人に10年かかるプロジェクトを任せるわけにはいかないだろうし、死別すると辛いからと思って深い付き合いを避けるのを一方的に差別と糾弾できるものでもないだろう。

そして仮に福島の人たちが高線量の被爆を受けたのだとしたら、実際に寿命が短くなる。確率的なものだから必ずというわけではないし、5年後というのもオーバーだけど。

そういう事情を考えると実際の福島の人たちが受ける扱いの「不当さ」は、高線量の被爆を受けたとする誤解、あるいは低線量の被爆でも高線量と同じ被害が生じるという誤解、によるところが大きいのではないか。

「長生きできない人とも平等に接しましょう」などと訴えても効果はなさそうだし、むしろ長生きできない事がまるで事実であるかのような言い方でかえって差別が助長されてしまうかもしれない。差別を抑止するには被爆の事実や被爆の健康への影響についての誤解を解くのが第一なのではないか。

もちろん「放射能がうつる」だと、そもそも高線量の被爆を受けていたとしてもうつりはしないという話をするべきだし、そこで安全性を訴えることには差別の合理化を追認する効果はあるかもしれない。でも、上に挙げたようなケースで安全性を訴える以外にどうするの?と思う。

(初出: facebook)