上野千鶴子氏の東大入学式での祝辞の問題点について (2021/4/22追記あり)

二年前に話題になった上野千鶴子氏の東大入学式での祝辞を読み直す機会があり、今更ながらちょっとびっくりするようなことに気が付きました。初見ではスルーしていたのですが、よく見ると祝辞前半の理屈が全然通っていないのではないか?ということです。

祝辞の前半というのは東大理3の合格率の男女差について述べた以下の部分です。

ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。

女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。

上野氏の前半の理屈は一部混乱があるように思えますが以下のように整理できます。

A. 東大受験の女子の合格率は男子より低い(事実)*1
B. 東大を受験する女子が少ない(事実)
C. 社会には女性差別があり女子の受験が阻まれる(事実)
D. B の理由は C であろう(妥当な推論)
E. よって A の理由は C であろう(???)

よくわからないのは E です。単に A, B, C, D を列挙しただけなら論理的には問題ないのですが*2 A を述べた後「この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。」「なんらかの説明が要ることを意味します」とした後「まず第1に」「第2に」「第3に」と B〜D を主張しているので、B〜D は A が何故なのかを「読み解き」「説明」しており、前半の議論の全体としては E を主張していると解釈するのが自然です。*3

ところが、A は 女子の東大合格率 = 女子の東大合格者数 / 女子の東大受験者数 が男子より低いという主張なのに、B〜D はその分母である「女子の東大受験者数」が少ないという主張しかしておらず、「女子の東大受験者数」が減った割合以上に「女子の東大合格者数」が減る(そうでないと合格率は減りません)理由を全く述べておらず、A の理由の論証として成り立っていないのです。

一方で、上野氏は「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高い」と主張しています。「女子の東大受験者数」が減る際に成績の低い人から東大受験を諦めるので、残った人は成績優秀な上澄みになるからです(以下これを「上澄み効果」と呼びます)。これは妥当な推論だと思います。

しかし、それならば女子の東大合格率は男子より高くならないと辻褄が合いません。辻褄を合わせるには女子が高校での成績が優秀であるにも関わらず受験本番で成績が下がる理由が必要です。ですがそれについて上野氏は何も述べていません。

「意欲の冷却効果」がその理由として提示されているという解釈は可能でしょうか?「意欲の冷却効果」は「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」という社会の扱いが女子の勉強あるいは受験の意欲を削ぐという話です。

しかし、勉強の意欲が削がれているのなら女子一般の成績は男子一般より落ちるはずです。上野氏は女子受験生の方が男子受験生の方が成績が良いと言っているので、単純に見るとこれは矛盾です。ここは受験の意欲が削がれて受験を諦めた女子が多い中、敢えて受験を決意した女子は優秀な人が多い、と解釈するしかないと思います。

だとすると、結局これは「上澄み効果」の傍証を追加しただけということになり、「上澄み効果」があるにも関わらず女子の東大合格率が下がる理由については何も言っていません。

一体これは何なのでしょう?一つの解釈は、

1. 上野氏は「女子の東大受験者数」が減れば「女子の東大合格率」が下がると勘違いして、E を論証できたと思い込んでいる。

というもの。もう一つの解釈は、

2. E を論証するという素振りはフェイクで、実は「女子の東大合格率」が下がる理由は存在しないことを強調することで東大理3受験には女性差別的な不正があることを仄めかしている。

というものです。あるいは、

3. A の理由を説明する全く別の説明を用意していたが、当日話すのを忘れた。

という解釈もありうるでしょうか?

1 は上野氏の知的能力を疑っているという意味で失礼な解釈ですが、2 は上野氏に悪意があると見做しているのでこれもまた失礼な解釈ではあります。3 は 1 に似ていますが知的能力というよりは認知能力を疑っておりさらに失礼ですね… しかし、上野氏に間違いも悪意も存在しないという解釈はちょっと思い付きません。

もっとも 2 の解釈には問題があります。上野氏の祝辞は全体として東大の教育体制を肯定しているからです。祝辞の後半では「東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です」「れから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います」などと言って「ようこそ、東京大学へ」という歓迎の言葉で締めているのですから。

これを文字通りに取れば、上野氏は祝辞の前半で E が論証できたと思っている、すなわち合格率が低いのは入試以前の社会の女性差別のせいで入試に不正があったせいではないと思っていることになります。入試に不正があったと思っているならこうはならないでしょう。よって解釈 1 が正解であると。

しかし上野氏ほど知的能力の高い人が一世一代の大事なスピーチで 1 のような勘違いができるものでしょうか?そんなはずはない、とするならば、東大肯定のこの部分を文字通りに受け取ることは不可能になります。その場合、東大肯定部分は言外に「(但し医学部を除く)」という含みのあるものと解釈せざるをえません。

これはやや無理のある解釈ではありますが、上野氏は「社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです」と言っており*4 東大の何もかもを肯定しているわけではないので、そういう解釈もありえなくはない、とは言えるでしょう。

また、3 の解釈にも無理があります。この祝辞は東大の公式サイトに掲載された際に「一部事実と異なる表記」を修正しています。3 の解釈が正解ならこの時に話し忘れた部分を加筆するのが自然ではないでしょうか。

今の今まで話し忘れたこと自体気付いてないという可能性もゼロではないですが、そもそも行間からも読み取れない主張を存在するものとして解釈する、しかもそれがどんな主張か全く不明、というのでは文章の解釈とは言えません。文章の解釈とは別次元の擁護論と言わざるを得ないでしょう。

ということで、僕自身は 1 の解釈を取っています。上野氏だって人の子で勘違いはするだろう、と思っているからです。でも上野氏の知的能力を信頼する人ほど 2 の解釈に流れるということはあると思いますし、その解釈を完全に否定することは困難だと思っています。

「ハンロンの剃刀」(無能で十分説明されることに悪意を見出すな)というベストプラクティスに反するとは言えますが、「ハンロンの剃刀」が常に正しいというわけでもないのですから。

なお、僕はこの祝辞は全体としては良いことを言っていると今でも思っています。上野氏は、才能や環境に恵まれ受験競争を勝ち抜いた新入生たちに対して女性差別を例に挙げ「がんばっても報われない社会」の存在を示し、その一方でフェミニストや東大そのものなど限られた範囲ではあれ「がんばったら報われる」環境を作ってきた人に思いを馳せ、そのように生きなさいと言っているのです。

ただ、最初にこれを読んだ時は不正入試を「がんばっても報われない社会」の例として示していて、理3の合格率男女比 1.03 も不正の仄めかしだと思っていました。女子が社会の女性差別の結果、浪人を過剰に避けたり進学を諦めたりするのもまた「がんばっても報われない社会」の独立した例示だと思っていたからです。

でも、今回祝辞を読み直して、どうも理3の合格率問題は不正ではなく社会の女性差別の帰結だと主張しているらしいことに気付いて戸惑った、というわけです。

祝辞の骨子としては依拠する例示が一つ減っただけで、何ら破綻があるわけではありません。しかし、理3の合格率問題を、これは不正なのか?と問いかけつつ、いや不正ではない、という論証に失敗しているというのは、じゃあ不正なのか?という疑問を残してしまうことになります。

実際のところ 1.03 という合格率男女比の偏りは統計的誤差の範囲と解釈可能で、理3の入試に不正はなかった、よって上野氏の祝辞の骨子は揺らがない、と言えると思いますが、1.03 が社会の女性差別の反映であるという主張自体は誤りで、そのことは上野氏の失点と言わざるを得ません。上野氏自身が「統計は大事です」などと言っているのですからなおさらです。

以上、この件については Twitter でもたくさんつぶやきましたが、話が結構ややこしい上、僕自身も頭を整理しきらないままつぶやき散らかしたせいで僕が何を言いたいのかわかりづらいところがあったと思い、改めて論旨を整理してまとめました。

追記(2021/4/22): 「1.03 という合格率男女比の偏りは統計的誤差の範囲と解釈可能」と書きましたが、そうとも言い切れない事に気が付きました。

一見してばらつきの範囲内に見えるのと、「東大理IIIは本当に男子の合格率が高いのか?」で有意差なしとの計算があったのでそう思っていたのですが、そもそもこれは「男女の合格率に差はない」という帰無仮説に対するものです。

しかし上野氏は女子の受験生の方が成績が良いはずだと主張しているので、本来は女子の方が合格率が高いはずなのです。そして男女の成績の差がどれだけあるかわからないのでどれだけなら有意差ありと言えるのかわかりません。

また、東大理3の入試は2018年度から面接が導入されていて、それ以前とはデータの連続性がありません。1.03 というのは2013年度から2018年度までの直近(当時)6年分のデータから算出したもので連続性のないデータが混じっています。

ということで有意差あるなしは簡単には言えなさそうです。不正がある、と言うには有意差があることを立証すべきですが、上野氏は「不正がなくても合格率は女子が不利になる」という話をしようとしているので、本来は必ずしもその必要はありません。

しかし、実際には「不正がなくても合格率は女子が不利になる」の論証に失敗していて、実質「不正がなければ合格率は男女逆転する」という話になってしまっているため、結果的に根拠のない話をしている、という評価になってしまうのだと思います。

*1:ただし、東大理3の合格率の男女比が 1.03 というのは統計的誤差の範囲ではないか?という指摘はあります。しかし上野氏は有意水準を前もって設定していないのでなんとも言えません。有意水準を設定していない=統計的誤差を考慮していないこと、一般的には有意でないとされるのではないかということ、については批判されてしかるべきですが、その点については本エントリでは割愛します。

*2:その場合、論理的には問題はなくても文章構成としては A が投げっぱなしになっていて不自然な構成と言わざるを得ませんが。

*3:例えば墨東公安委員会さんのこの解釈 https://twitter.com/bokukoui/status/1382946024600137731 もそうなっていると思います。

*4:その傍証として、東大の女子比率は博士課程までは増えていくのに研究職になると地位が上がる毎に減っていくことを挙げています。

フィンランド鉄道(VR)の車椅子対応の話とか

はてな匿名ダイアリー(以下慣例にならい個々の日記及びその筆者を「増田」と呼びます)にあったフィンランド鉄道(VR)の車椅子対応の件ですが、

  • 介助が必要な場合はカスタマーサービスに36時間前までに電話で介助スタッフ予約
  • 乗車列車やどんなサポートが必要か事前に伝える
  • サービスの利用は無料

https://www.vr.fi/en/facilities-and-services/accessible-train-travel
はてサが大好きな福祉先進国北欧の車イス対応についてのメモ — https://anond.hatelabo.jp/20210409174921

これについてはてなブックマークコメントで「36時間前までじゃなくて早くて36時間前、遅くて2時間前までに、って書いてない?」と書いたところ、いや、Assistance service at stations には36時間前までに予約って書いてある、との反論があったので補足します。

僕が言ってるのは Commuter traffic ramp service の章にある ramp service のことで、車両とホームの段差にスロープを付けるサービスです。ここには「You can order the service 36 hours before the trip at the earliest and 2 hours before the trip at the latest.」とあり、遅くとも2時間前に連絡を取ることになっています。

で、増田が言ってるのは Assistance service at stations の章にある「The assistance service should be booked 36 hours before the departure time of the train.」のことだと思うのですが、この assistance service というのは、一人で駅を使ったり電車を乗り降りしたりできない人をエスコートするサービスだと思います。

この章の Assistance in boarding the train 以降の節を見ると、出発駅では乗車する車両の席まで連れて行ってくれ、乗り換えでは正しい車両まで案内してくれ、到着駅ではタクシー乗り場やバス停まで案内してくれるようです。また、章の冒頭にはサービスの対象となる人として、高齢者、車椅子使用者、視覚障害者、聴覚障害者、自閉症スペクトラムの人、記憶障害のある人が挙げられています。

増田の「車椅子対応」が何を差すか明確ではありませんが、おそらく伊是名夏子氏の乗車拒否の文脈での話だと思います。伊是名氏は段差さえなければ電動車椅子を操縦して一人で移動でき、段差の解消または迂回を求めているので assistance service が提供するサービスは求めていません。なので、ramp service の方が求めるものに近いのではないでしょうか。

ただし、どちらのサービスも「車椅子を階段で持ち上げて運搬する」というサービスは想定していないと思います。

ramp service は車両とホームの段差にスロープを付けるだけだし、assistance service は「Please note that for security reasons, the assistant cannot lift the customer to or from a wheelchair.」とあって車椅子から利用者を降ろしたり乗せたりしませんし、安全上の理由でそうしないと言うくらいなので車椅子に乗せたまま階段上を運搬するなんてこともしないでしょう。

そもそも駅のアクセシビリティの状況はどうなのかということですが、Tips for a smooth train trip の章には「Most railway stations are primarily accessible.」「Some stations have lifts to make transfers easier.」とあり、駅構内は何らかの形で車椅子での移動が可能と思われます。が、全ての駅でそうなのかは不明です。

最後に伊是名氏の要求についての僕の見解を。

80kg*1電動車椅子を4人がかりとはいえ手で運ぶのはそこそこリスクはあり*2 仮に熱海駅長が断っていても責められるものではないと思っています。

この件は小田原駅の担当者が代替ルートを確保した上で案内する(案内できる体制にしておく)のが適切だったと思います。ただし常に代替ルートが使えるわけではないし、将来エレベーターを設置したとしても事故や災害等でどうしても電動車椅子を階段で運搬する必要も出てくるでしょうから、「モッコ」*3 なり「電ネコ」*4 なりを使って少人数で少しでも安全に運べる準備はあったほうがいいのではないでしょうか。

また、伊是名氏がクレーマーだとか過去の発言等から性格悪いとか思想的にどうなのかみたいなことも言われていますが、公共交通機関というのは性格悪かろうが過激思想の持ち主だろうがなんなら人殺しの過去がある人でさえ乗車拒否なんてしませんししてはいけません。仮に氏への批判が正当なものだったとしても*5そのことと公共交通機関バリアフリーがどうあるべきかというのは別の話です。

追記: 増田は「介助が必要な場合」って書いてるのでそれだけ見ると間違いではないのだけど、assistance service の「assistance 介助」というのは施設上の(いわゆる)バリアフリーでないところを助けるということではなく、バリアフリーの施設であっても利用に支障がある人を助けるためのものだと思うので、文脈上は違う話なのでは、ということです。

*1:100kg説、120kg説などあったが、本人はJ-CASTの取材に80kgと答えている。ブログの写真を見るとおそらく当日使用の車椅子は、さいとう工房のレルミニシリーズ(最軽量のモデルが 83kg) https://saitokobo.com/product/ と思われる。

*2:骨しゃぶりさんのブログ「1台の電動車椅子を持ち運ぶのに何人の駅員が必要か? ただし労働基準法に従うものとする」でも検討されているように安全性の点ではギリギリの条件。

*3:肩ベルトで支えて二人で重量物を運ぶための道具。運送業者は100kg以上の家具やコピー機などをこれで運ぶ。

*4:電動で階段を昇降できる運搬車。100kg以上の荷物の階段での運搬を一人で行うことができる。参照: https://liftkar.net/

*5:個人的には不当なものが圧倒的に多いと思うが。

『はじめての動物倫理学』を読む前に

田上孝一『はじめての動物倫理学』をこれから読もうと思うのだけど、その前に、現時点で動物倫理についてどう考えているか、を記録しておこうと思う。

はじめての動物倫理学 (集英社新書)

はじめての動物倫理学 (集英社新書)

そもそも動物倫理について曖昧にしか知らないからこそ「はじめての」と銘打つ本書を読むことにしたので、以下に述べることは概ね的はずれな話でしかないかと思うが、読後に考え方がどう変わったか、変わらなかったか、というのを自分で確認できるように。

特に誰かを説得したりするためのものではないので、箇条書き形式で思うがままに書き連ねることにする。

  • そもそもなぜ他人を苦しめたり傷つけたり殺したりしてはいけないのか?
    • いつ誰に苦しめられるかわからない状況で生きていくのは辛すぎるから互いに傷つけ合わない約束として「他人に苦痛を与えない」という倫理が必要とされた、と考えている。
      • 「他人」の範囲は最初は共同体のメンバーに限られていたが共同体間の相互依存が進むにつれ、人間全体に広げる必要が出てきたのではないか。
      • 相互に交わされる約束なので約束を理解し約束を守る能力と意志のない者は対象外。
        • それだと子供や知的障害者などはどうなるのか?
          • 子供については誰もが最初は子供なのだから保護しないわけにはいかない。
            • とはいえ母体の命に関わらない場合でも人工妊娠中絶を認めている以上、胎児レベルになると対等な「人間」として扱っていないのではないか。
              • 動物倫理を支持する人は人工妊娠中絶についてどう考えているのだろう?支持できないという立場にならざるを得ないような…
          • 障害者については、回復する可能性があるというのと、親族等がその人を仲間とみなしていることを尊重するという意味で保護すべきではないか。
            • それだと身寄りもなく回復の見込みもない障害者を傷つけない根拠がないのでは?
              • ストレートには保護する必然性を根拠付けられないかもしれない。
              • 結局「かわいそう」を根拠にするしかないのかも。
      • そういう功利的な理由だと、反撃しない相手に対しては約束を守る理由がなくなるのでは?
        • 個々の事情に関わらず普遍的に守られる約束でなければ、約束が守られると予期することで得られる安心が得られないため、約束を守らない者に対して第三者が制裁を加える動機があり、制裁を回避するという理由で約束が守られるであろう。
  • 上のような考え方だと、約束を交わせない相手である動物を人間と同様に扱う理由はない。
    • 「かわいそう」を根拠にした保護はありうるがそれは動物側の権利ではなく、あくまで人間側の心の平安を保護するもの。
      • ただし、人間に懐き、躾が可能な動物についてはある程度「約束」が成立していると見るべきかもしれない。
  • 痛覚の有無を「苦痛を与えない」対象を識別する根拠とするのはよくわからない。
    • そもそも我々が特定の属性を持つ人たちを差別していた/いるのは、その人たちが苦痛を感じないと思っていたからではない。その人たちの苦痛に共感しない、共感しなくてよいと思っていた/いるから。

まあ倫理学っぽい考え方ではないというか、倫理のために人があるのではなく人のために倫理がある、ぐらいの考え方なので、単に僕が倫理学を全否定する人でなしでした、ってだけの話かもしれない。

それにしても気が重い。読むと肉が食べられなくなるのではないか。それは僕にとって生きる意味の少なからぬ部分を棄損することを意味するし、それ以上に自分の過去の人生を取り返しのつかない罪に塗れたものとして全否定することになるのではないか。そんなことになったら正直死んだほうがマシと思わざるを得ないのではないか。

死にたくないので読まない、という選択もあるにはあるけれど、こういう時代の流れでは目を閉じ耳を塞ぎ続けるのも限界があるし。でも辛すぎて最後まで読めない、ということはあるかも。

包摂の条件 ― 『ヒーリングっど♥プリキュア』第42話における「のどかの選択」について

2021年1月31日放送の『ヒーリングっど♥プリキュア』第42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」が衝撃的でした。僕はプリキュアシリーズは初代から今まで全話視聴していますが、今までにないパターンで強烈なメッセージを突きつけてきたな、と思いました。

今までアニメを見てきて(といっても年に数作程度しか見ていませんが)ここまで衝撃を受けたことは滅多にないことです。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(通称「夏エヴァ」)のラスト以来ではないでしょうか。

以下ネタバレになります。










第42話は主人公である花寺のどか(= キュアグレース)が、元敵組織の幹部で組織に命を狙われてのどかに助けを求めてきたダルイゼンを拒絶し、倒すという話でした。

ダルイゼンとのどかは因縁の深い関係で、幼い頃のどかを苦しめた原因不明の病気の本体はダルイゼンでした。敵組織ビョーゲンズの王キングビョーゲンの力で自我が芽生えたダルイゼンはのどかの体から出てきて人間の姿になり、ビョーゲンズの一員として地球を蝕む活動を始めます。

プリキュアとなってビョーゲンズと戦う(地球をお手当する)のどかは、やがてこの事実を知り、ダルイゼンを産み出してしまった自分に責任を感じ、自らの手でダルイゼンを倒すことを決意していたのですが、そこにダルイゼンが助けを求めてきます。

第41話でキングビョーゲンに同化されそうになったダルイゼンは脱走します。同化されれば自我を失い自分が自分でなくなるからです。追撃で傷つきボロボロになったダルイゼンはのどかの前に現れます。

ダルイゼン: みつけた… いいからよこせよその体!
のどか(キュアグレース): もしかして、キングビョーゲンにやられたの?グアイワルを取り込んだみたいに、また仲間を…
ダルイゼン: 助けて…くれ… このままじゃ、俺は俺じゃなくなる… 消えてなくなる… たのむ、キュアグレース、お前の中に俺を匿ってくれ…
ラビリン: 何言ってるラビ!
ダルイゼン: お前は俺を育てた宿主だ。お前の中ならきっとこの傷は癒える。キングビョーゲンに見つからず回復できる。たのむ、助けてくれ、キュアグレース…

激しく動揺するのどかは、助けを求めて伸ばしたダルイゼンの手を思わず振り払って背を向けて逃げ出します。そんなのどかをダルイゼンは責めます。

ダルイゼン: お前、俺に言ったよな!「自分さえよければいいのか」って!結局お前も同じじゃん!

第42話で、パートナーのラビリンがのどかの真意を確かめようとします。のどかは本当はダルイゼンを助けたかったのではなかったのか、地球を守るという使命を帯びたラビリンのために我慢したのではないか、と。しかしのどかはそうではないと言います。

のどか: ちがう、そんなことじゃないの… わたし、そんな優しい子じゃない…
ラビリン: のどか…
のどか: あの時、わたし、自分のことしか考えてなかった。だって、辛くて、怖かったの… 強い気持ちでいなきゃ負けちゃうから、笑っていないと自分が潰れちゃうから、だからすっごく頑張った。今の私を作ってる大事な経験だったと思ってる。でも、それでも、叶うことならもう二度と、あんな苦しい思い、もう、したくないよ…
ラビリン: のどか… ごめんラビ。ラビリンまだまだのどかのことわかってなかったラビ。ダメラビね…
のどか: ううん
ラビリン: のどかは、ダルイゼンを助けたいラビ?
のどか: そうした方が、よかったんだと思う…
ラビリン: そうじゃないラビ。のどかの気持ちを聞いているラビ。
のどか: 無理。わたし、どうしても嫌!嫌なの!
ラビリン: だったら、助けなくていいラビ!悩む必要もないラビ!
のどか: えっ?
ラビリン: のどかが自分を犠牲にしなきゃいけないなんて、そんな義理も責任もないラビ。のどかは、十分頑張ってくれてるラビ。それは、ラビリンたちがよーく知っているラビ。もし、のどかに何か言ってくるやつがいたら、ラビリンがぶっ飛ばしてやるラビ!
のどか: ラビリン… (涙)
ラビリン: だからのどかは、自分の気持も、体も、大事にしていいラビ。のどかが苦しまなきゃいけない理由はひとっつもないラビ!
のどか: うん、ありがとう…

笑顔を取り戻すのどかですが、ダルイゼンとの決戦では怪物化した彼にもう一歩踏み出した自分の気持を突きつけます(以下、ダルイゼンとラビリンとのどか(キュアグレース)のやりとりのみ抜粋)。

ダルイゼン: 助けてくれ… こんな、こんなのは俺じゃない!
ラビリン: ダルイゼン!グレースのやさしさにつけいるのはやめるラビ!
ダルイゼン: キュアグレース、お前だけが頼りなんだ。お前の中に!
のどか(キュアグレース): そしたら私はどうなるの!?いつまで!?あなたが元気になったらどうするの?あなたはわたしたちを、地球を、二度と苦しめないの!?わたしはやっぱり、あなたを助ける気にはなれない!
ダルイゼン: ウワーッ!
のどか(キュアグレース): ダルイゼン、あなたのせいでわたしがどれだけ苦しかったか、あなたは全然わかってない!わかってたら地球を、たくさんの命を蝕んで笑ったりしない!都合のいい時だけ私を利用しないで!わたしはあなたの道具じゃない!私の体も!心も!全部、わたしのものなんだから!

そして浄化技プリキュア・ファイナル・ヒーリングっどシャワーでとどめを刺します。

ダルイゼン: 俺だって、俺の体も、心だって… うわーっ!!

多くの人がこれを見て連想するのは「復縁を迫るクズ男を振り切る元カノ」ですよね。ダルイゼンが体が目当てだったところも… プリキュアは主に幼児から小学校低学年までの女児をターゲットにした作品ですが、将来クズ男に苦しめられた時に思い出して欲しい、という思いを込めたストーリーなのでしょうか。

僕はこれを見て2019年にプリキュアファン界隈で起こった性暴力事件のことを思い出しました。プリキュアファンの少女にプリキュアファン仲間の成人男性が交際を迫り性的な接触を強行し、耐えきれなくなった少女が別れ話を切り出すと「別れるなら死ぬ」と脅してきた、というものです。*1

警察の介入で縁は切ったものの、自分のせいで彼を死なせてしまったと思い込み、長い間罪悪感に苛まれていた被害者ですが、「のどかの選択」はこのような人にこそ届けたいメッセージだったのではないかと思います。

「わたしはあなたの道具じゃない」「私の体も心も全部わたしのもの」という言葉は、フェミニズム理論の概念の一つ「性的モノ化(sexual objectification)」を連想させる言葉です。女性は「モノ」ではない、すなわち、誰かの欲望を満たすための道具ではなく自律した存在であり体も心も自分自身のもので他人がそれを侵す権利はない、という主張です。

しかし作劇上は「魅力的な敵キャラ」として育ててきたダルイゼンを、最後の最後で「よく考えたらこいつクズ男じゃん!」という方向で決着させるのは、なかなかできないことですよね。

ということで、のどかの選択は間違いなく正しいのですが、不安にさせる要素があるのも事実です。プリキュアは「愛」の力で「悪」をも最終的には包摂する存在ではなかったのか?

プリキュアシリーズでは因縁の深い敵幹部がプリキュアに感化され転向して味方になったり、そうでなくとも何らかの救いがあることが多く、「敵」(そもそも敵という言葉も避ける傾向がありましたが)を絶対悪とせず理解可能な存在として相対化する傾向がありました。

そもそもプリキュア「正義の味方」ではないのです。あくまで自分たちの日常を守るために戦うのです。それは2004年の初代プリキュアのエンディングテーマ「ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!」の歌詞に端的にあらわれています。


地球のため みんなのため それもいいけど忘れちゃいけないこと あるんじゃない?!の!

もちろん「のどかの選択」もこの線で理解することは可能です。善悪で言えば「悪」にすら救済の手を差し伸べることが「善」なのですが、のどかの平和な日常を守るためにはそれはできません。のどかは女神でも天使でもなく一人の中学生なのです。無限の愛も自己犠牲も期待していい相手ではありません。

しかし、だからといって単純に自分たちの都合だけで「悪」を切り捨てていいのでしょうか?ラビリンの言うように「義理も責任もない」のは事実だとしても、ならば「自分さえよければいいいのか」などと非難したのは間違いだったのでしょうか?

ダルイゼンは絶対悪だから他者のうちには勘定しない、他者への配慮を訴える「自分さえよければいいいのか」は適用されない、という考え方もあり得ます。しかし、のどかはそのような立場には立っていないように見えます。

むしろのどかは一貫してダルイゼンを「対等な他者」として見ているのではないでしょうか。本来ダルイゼンは人間ではないのでそれこそ人間の都合なんて考える義理も責任もないのです。なのにのどかは「自分さえよければいいいの?」「私がどれだけ苦しかったかあなたは分かってない」とダルイゼンを非難します。

これは相手を対等な関係であるべき他者だと思っているからこそ出てくる言葉です。つまりこれは「対等な関係を拒んでいるのはあなたの方だ」という非難なのです。

これもまた一つの「包摂」の物語なのではないでしょうか。包摂というのは同じ社会の一員として共に生きる関係を築くことです。一方的に救済するのではなく相手との対等な関係が前提になります。無条件の「赦し」は相手を対等な存在として認めていないということでもあり、それを包摂と言えるのか疑問が残ります。

後に相手が改心することを期待して先に大きな愛で抱擁するというやり方も間違いではないでしょう。でも、子供たちにまず必要なのは「自分の幸せを自分で守ること」です。対等な関係の中で「助け合い支え合うこと」がその次で、一方的に他人を救済するというのは大きな力を手にした人の責任と義務、すなわちノブレス・オブリージュです。

今までプリキュアは超越的な力を手にした存在として救済者の責務を負わされていた面がありました。しかし今期のプリキュアでは、プリキュアも、そしてプリキュアに憧れる子供たちも、本来は一人の人間だということを強調したのではないでしょうか。そして、高貴でありたいと願うその心につけいる邪悪が存在するということも。

もちろん「自分を大事にして自分を犠牲にしない」は一歩間違えば利己主義や自己責任主義に陥る危険性もあります。そうさせないためにも作中ではのどかを過剰なくらいに「いい子」として描いていたのかもしれません。

正直今まで僕はのどかの過剰なほどの優しさや気遣いに、子供にここまで求めるのは酷なのでは?とさえ思っていました。理想像として描いているにしても「いい子」過ぎると。しかし「のどかの選択」を見てその必然性はあったのだと思いました。

さて、第42話でプリキュアに浄化されたダルイゼンは完全には消滅せず、メガパーツで強化する前の初期の姿に戻っただけでした。そしてなすすべもなくキングビョーゲンに同化されてしまいます。しかし本当にダルイゼンは消えてしまったのでしょうか?

あれだけ自我の強いダルイゼンですからもしかしたら… ダルイゼンの最後の言葉「俺だって、俺の体も、心だって」が気になります。これは単なる自己愛の表現なのでしょうか。それとものどかも自分も同じだ、対等なんだ、という気付きの芽生えなのでしょうか。

*1:実際には死んでいません。それどころかその後も複数の少女を相手に同様のことを繰り返しています。

いわゆる「望遠圧縮効果」と世界のリアリティ

1月7日に首都圏に新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言が発出され街の人手の混み具合に注目が集まる中、メディアで報道された街の雑踏の写真が望遠レンズを使ったいわゆる「望遠圧縮効果」を使って混み具合を誇張した印象操作ではないかとの声が上がっている。

同様の声は4月の緊急事態宣言の際にもあったが、「懲りないマスコミ」と見られたせいか、前回以上に声が大きくなりメディアも無視できない状況になったようで、毎日新聞 Web 版にこんな記事が掲載された。

有料記事のため全文は読めていないが、広角レンズで撮るとパースで歪むという釈明をしているようだ。これに対して「標準レンズで撮ればいいじゃないか」との再反論の声も上がっている。

「望遠圧縮効果」とは何か

そもそも「望遠圧縮効果」とは何だろうか。「望遠レンズを使った時に生ずる遠近感の消失で離れた物同士が近づいているように見える現象」と説明される事が多いが、これはやや語弊がある。遠近感の消失はレンズの焦点距離とは無関係に撮影距離で決まるからだ。

例として視線方向に 1m 離れて並んだ同じ高さの2本の杭を撮影する場合を考える。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/tele-01.png

レンズの焦点距離f、レンズの主点から2本の杭の手前の方までの距離(撮影距離)を d、杭の高さを h、カメラの像面上での手前の杭の像の高さを y、奥の杭の像の高さを y' とすると、遠近感が強調されるほど二つの杭の像の高さの比 \frac{y'}{y} は小さくなり(奥の杭が手前に比べてより小さく写る)、1.0 に近づくにつれて遠近感は失われていくことになる(奥の杭が手前とほぼ同じ大きさに写る)。

比例式を解くと二つの杭の像の高さの比 \frac{y'}{y}\frac{d}{d+1} である。焦点距離 f と杭の高さ h は比例式を解く過程で消えてしまい、撮影距離 d だけに依存する。

縦軸に杭の像の高さの比、横軸に撮影距離をとったグラフは以下のようになる。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/tele-02.png

カメラの像面に写る像には、撮影距離 1m と 10m で以下のような差が生じる。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/tele-03.png

遠近感が撮影距離だけに依存することから「望遠レンズの圧縮効果などない」という言い方をする人もいる。

ただ、そこまで言うとまた語弊もあると思う。というのは、望遠撮影あるいはトリミングして拡大した写真を見る人は、それを実際よりも近い距離から撮ったものと錯覚しがちだからだ。その結果、近い距離での遠近感から逆算して奥行きを推定し、空間を実際より圧縮した形で認知する(錯覚する)ことになるだろう。

この錯覚を指して「圧縮効果」と呼ぶなら、この効果はレンズの焦点距離(画角換算の焦点距離)に依存するとも言えるので「望遠圧縮効果」という言葉も間違いではないと思う。

過去の「圧縮」疑惑について

雑踏の報道写真で「望遠圧縮効果」が問題になったのはおそらく4月のコロナ報道が初めてではないかと思う。しかし雑踏以外の報道写真で「望遠圧縮効果」が問題になったことは過去にある。上でリンクした togetter のまとめでも言及されている東京新聞の2017年8月23日の記事「米軍ヘリ、ベイブリッジに低空接近 市民団体が撮影 真横飛行「危険だ」」の写真がそれだ。

米軍ヘリとベイブリッジが「数十メートルの近さ」まで接近したという市民団体メンバーの証言を含む報道で、証言者がベイブリッジから約 3km 離れた遠方から撮った写真を掲載したというもの。

記事に集まった批判と記事内容の検証についてはバズフィードの以下の記事が詳しい。

この件については撮影者が「望遠圧縮効果」で印象操作したという話ではなく、ベイブリッジとヘリコプターのスケール感を見誤って接近したと誤認したというのが実際のところだと思われる。「望遠圧縮効果」を実際に計算すると、さほど「圧縮」されていないことがわかる。

検証結果ではヘリコプターまでの距離が約2330m、ベイブリッジまでの距離は約3300mで、ベイブリッジがヘリコプターより1.4倍離れている。遠近感(それぞれの位置に置いた同じ大きさの物体の見かけの大きさの比)は \frac{2330}{3300} = 0.71 で、そこまで「圧縮」されているわけではない。これがヘリコプターとベイブリッジではなく2機のヘリコプターだったとしたら「数十メートルの近さ」などと誤認しなかったであろう。*1

撮影者の所属する市民団体リムピース在日米軍基地の監視などを行っている団体で、ベイブリッジから約 2km 離れたところにある米軍基地「横浜ノース・ドック」の監視を継続的に行っていて、以前から臨港パーク付近から出入りする艦船を撮影している*2

2017年8月3日の問題の写真以前の写真を一通りチェックしたが*3艦船のベイブリッジ下通過は度々報告しているものの、ベイブリッジ方面へのヘリ飛行の報告は8月3日が初めてのようである。そもそもヘリコプターの飛行の報告自体が稀。見慣れない風景であることと、日頃から米軍機の危険性を訴えていることからくる先入観が誤認を誘発したのではないか。トリック写真を撮るために意図的にこのアングルを狙った線は薄いと思う。

コロナ報道での「圧縮」写真の何が問題か

というわけで、米軍ヘリの件は実際には「望遠圧縮効果」とは関係のない話だった。話を雑踏の写真の話に戻そう。

Twitter では望遠レンズで雑踏を撮るカメラマンの事を「圧縮マン」などと揶揄する声も聞かれるが、一体何が問題なのだろう。雑踏を望遠で「圧縮」して撮る技法自体は昔からあるもので、コロナ報道以前にも同様の写真がメディアで広く使われてきたはずだ。今までそれが批判されることはなかったのに何故今なのか。

コロナ報道での雑踏の写真は街の人出があまり減ってないという文脈で使用されることが多かった。しかし、撮影地(品川駅自由通路等)を実際に歩いた人からすると「こんなに混んでいない」「捏造ではないか」ということになる。

メディア側には社会に警鐘を鳴らすという目的があり、速報性をめぐっての競争もあるため、目先の危険を誇張するインセンティブがある。街の混み具合を過少に表現して市民の危機感が薄れるよりは、過大に表現して危機感を煽る方がメディアの目的にかなっている。

一方で、外出自粛は多くの市民の QOL を下げるし、客商売をやっている事業者にとっては死活問題でもある。単純にマージンを取って過剰に自粛するのが安全というわけにはいかないのだ。感染拡大を避けたい点ではメディアと利害は一致しているが、それでも自粛は最低限にしたいというのが市民の立場だ。

コロナ禍における街の混み具合という情報に関してはこういった微妙なトレードオフが求められるため、過少見積もりも過大見積もりも許されず相当高い精度が求められる状況にある。雑踏の写真が基本的にイメージ映像的な扱いで済んでいた今までとは違うのだ。

望遠レンズでの雑踏の切り取りは元々日常的に行われており、今回の写真が意図的な「印象操作」「捏造」とまでは言い切れないが、「望遠圧縮効果」で遠近感を失った写真はそうとわかって見てもそこから現実の混雑度を把握することは困難になる。求められる情報の精度に対して表現技法の選択が不適切だったことは間違いない。

標準レンズで撮ればよかったのか?

では、一部の人が訴えるように標準レンズ*4 で撮れば求められる精度で雑踏の混雑度を表現できるのだろうか。一般に標準レンズで撮れば肉眼で見た印象に近い画角と遠近感が表現できるとされている。

しかし「肉眼で見た印象」が本当に私たちのリアリティだろうか。実際には私たちの感じる世界のイメージのかなりの部分が既にメディアの視聴体験によって「肉眼で見た印象」から離れたものになってはいないだろうか。

例として「月の大きさ」について考えてみよう。以下はアニメ『恋する小惑星』第2話で主人公が温泉から満月を眺めるシーンである。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/koias-02-00_20_33-00001.jpg

これを見て「月が妙に小さい」と思った人が多いのではないだろうか?

実は『恋する小惑星』は高校の天文部*5の部員たちの青春を描いた作品で、天体や天文機材の作画が極めてリアルであることから天文ファンの間でも評価が高いアニメである。このシーンでも月の大きさが標準レンズで撮った時の大きさとほぼ同じ大きさ*6 で作画されている。実際に標準レンズ*7 で撮影した月と比べてほしい。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/P4154980.jpg

これはどういうことだろう。標準レンズで撮った写真ならリアルに見えるはずではなかったのか。なぜ「妙に小さい」という印象が生じたのだろう。

実はほとんどのフィクション作品では月が実際より大きく描かれている。正確に言うと主題となる人物や風景のパースとは不釣り合いに大きく描かれる、もしくは極めて遠距離から超望遠レンズで撮ったかのように(つまり「望遠圧縮効果」を利用したかのように)描かれる。

アニメはもちろん実写でも背景に望遠で撮影した月の写真を合成することが多い。合成を使わないドキュメンタリー作品などでもイメージ映像として月を写す場合はそこだけ望遠撮影したカットが使われることがままある。

つまり、私たちの「背景に月がある風景」のリアリティはメディア体験によって歪められている可能性があるのだ。もし天変地異が起きて月と地球の間の距離が半分になったとして、それを報道するのに標準レンズで撮ったノートリミングの写真を掲載しても、天文ファン以外は誰も異変に気付かない可能性すらある。

雑踏の写真の話に戻ろう。雑踏の写真でもメディアのイメージ映像等では「望遠圧縮効果」を使った表現技法がよく使われている。たとえばストックフォトの Adobe Stock を「雑踏」で検索すると「圧縮」っぽい写真が結構な頻度でヒットする。そういう写真に慣らされた人は標準レンズで撮った雑踏の写真を見て「意外と密じゃない」と思ってしまわないだろうか。

ある時点で撮影した一枚の写真で量的なものを表現しようとすると、比較の基準は見る人の「普通はこのくらい」という相場感に左右されてしまう。そしてその「普通」はメディア体験によって現実からかけ離れている場合があり、メディア体験の個人差によっても「普通」の量は揺らいでしまう。

だとすると、単に標準レンズで撮れば済むという問題ではなく、基準そのものを固定するための工夫が必要になる。例えば異なる日に同じ機材で定点撮影した写真を並べて比較してもらう等。もちろん、それをやるとしても「望遠圧縮効果」を使った写真では意味がない。遠近感が消失して混雑度の差が把握しづらいからだ。

それは写真で表現できることなのか?

しかし、そもそもの話として、ある時点のある地点での雑踏の混雑度という情報が、私たちが本当に知りたい「外出の自粛の程度」を表しているかというと疑問もある。

たとえば駅から出てくる通勤客の混雑度は実際の出勤者の増減を正しく反映できていない可能性がある。ラッシュアワーの人出が減ると時差通勤で出勤時間を分散する必要性が低下するからだ。

つまり、今まで混雑を避けて早めに(または遅めに)出勤していた人が同じ時間帯に出勤するようになり、出勤する人の総数は減っても通勤ラッシュのピーク時の駅の人手はそれほど変わらないということが起こりうる。

要は、写真が「ある場所のある瞬間を切り取る」という表現である以上、混雑の時間的な分布や空間的な分布に変化があると、日々の定点撮影程度では人出の増減の総和を把握できなくなるということだ。

なるべく多くの地点で十分な時間をかけて動画を撮影するという手はあるが、それをわかりやすく提示するのが難しい。テレビや Web なら動画を早回しで見せるという手もあるが、新聞や雑誌では厳しい。動画にしてもそれを見て人出の総和を精度よく把握できるかというと難しい。頭の中で記憶を辿って時間軸に沿った積分するような能力が必要になるからだ。

結局のところ、何らかの統計処理を施した数字(あるいはその数字を可視化したもの)でしか精度の良い表現は難しいのではないか。その場合、統計処理や可視化処理の妥当性を主張するために学術論文並の記述が必要になりかねず、一般メディアに求められるレベルを越えてしまう。

であれば、一般メディアにできることは権威ある専門家が計算した結果を報道するぐらいであろう。当然、速報性という点では難がある。しかし市民とメディアの間に鋭い利害対立がある中、要求される精度を満たさない報道を繰り返すことで市民のメディアの不信が深まれば取り返しのつかないことになる。

問題は、市民が必要とする情報の精度がメディアが単独で応じるには高すぎる点にある。そのこと自体はコロナ禍の必然であり、どうしようもない。メディアの失敗はそれを安請け合いしてしまったことにある。撮影手法だけ変えたところで別の嘘が生まれるだけだ。仮に市民がその嘘に満足したとしても、市民に必要な情報が伝えられてないというメディアの存在意義が問われる状況に変わりはない。

一方で、市民の側にも一定のリテラシーが必要になる。統計処理のような操作をブラックボックスにしないためには市民の側に一定の科学的知識が必要になる。もっとも、短期間のうちに誰もがそのような知識を持つというのは現実的ではない。そのかわり、数多の「専門家」の中から誰が信頼できるかを適切に識別できるようになる必要がある。実のところその方が難しいのかもしれないのだが…

*1:初出時にヘリコプターとベイブリッジの距離を撮影地点からヘリコプターまでの距離と誤認し、ヘリコプターまでの距離を約1000m、遠近感を 0.30 としていました。お詫びして訂正します。

*2:高所から見下ろすアングルの写真については横浜ランドマークタワーからの撮影のようだ。

*3:見出しに「ノースドック」「ノースドッグ」「ND」「ND」を含む2005年4月7日から2017年8月8日までの468件の記事をを目視でチェックした。表記ゆれが他にある等の理由で見逃しはあるかもしれない。

*4:広角でも望遠でもない35mm版換算の焦点距離が50mm前後のレンズ。

*5:正確には地質研究会と合併して「地学部」である。

*6:ピントが手前の主人公たちに合っており、月はピンぼけ状態で描かれているため、これでも少し大きめになっている。

*7:マイクロフォーサーズの 25mm = 35mm版換算 50mm のレンズを使用。

「小児わいせつの再犯率は84.6%」って本当?

結論から言うとデマだと思われます。

国民民主党代表の玉木雄一郎議員が Twitter でこんなツイートをしていました。

あらかじめお断りしておくと「性犯罪歴のある者を教育や保育の現場に立ち入らせない仕組みが必要」というのは個人的には賛成です。性犯罪の再犯率の相場は1割〜3割(統計の取り方によって異なります)程度で大半は更生すると言ってよいのですが、被害の深刻さを考えればやむを得ないかと思います。

「84.6%」のソース

さて、それにしても「小児わいせつは84.6%と再犯率が高い」というのは初耳です。一体ソースはどこでしょう?と思ったら terazzo さんがそれらしきソースを発見していました。。

平成27年版犯罪白書の特集「性犯罪者の実態と再犯防止」の中にある、以下の記述がソースではないかということです。

同型性犯罪前科のある者の割合は,調査対象事件中の性犯罪により強制わいせつ(その他)型と類型化された者で,44.0%と最も低く,次いで,単独強姦型で63.2%,小児わいせつ型で84.6%の順であった。
平成27年版 犯罪白書 第6編/第4章/第5節/3

これは一体どういう数字でしょう?

まず、この章で調査対象にしているのは「性犯罪前科2回以上の者」です。6-4-5-6図 性犯罪前科の推移(単独強姦型)などを見るとわかりやすいのですが、最後に性犯罪で捕まった犯罪者のうち、前科として性犯罪が2回以上ある者、という意味です。

ここでは最初から再犯者だけを対象にしています。なのでこの章の統計には再犯しなかった者は一切出てきません。なので、 再犯した者の数÷(再犯した者の数+再犯しなかった者の数) であるところの再犯率は出てきません。実際この章に「再犯率」という言葉は一つも出てきません。

では84.6%というのは何でしょう?これは6-4-5-10図 性犯罪前科2回以上の者 同型性犯罪前科の有無別構成比(類型別)を見るとわかりますが、「小児わいせつ型」の性犯罪を犯した犯罪者のうち以前にも「小児わいせつ型」の性犯罪を犯していた人の割合です。

http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/62/nfm/images/full/h6-4-5-10.jpg
平成27年版 犯罪白書 第6編/第4章/第5節/3

ここからわかるのは「小児わいせつ型」の性犯罪者の再犯性ではなく、「小児わいせつ型」の性犯罪者の大半は子供ばかり狙う(大人は狙わない)という傾向です。

ちなみに痴漢(公共の乗り物内におけるもの)は100%です。もちろん痴漢の再犯率が100%であるなどというわけではなく、痴漢は痴漢ばかり繰り返す傾向がある、ということです。

そういうわけで、もし玉木氏の挙げた数字のソースが上に挙げたものであるなら、その数字は統計の読み違いによる誤りであると言えます。

実際の再犯率は?

84.6%が間違いだとして実際の再犯率はどの程度なのでしょう?性犯罪一般の再犯率については平成19年版犯罪白書の特集「再犯者の実態と対策」に調査結果が載っています。

7-3-4-16図は,70万人初犯者・再犯者混合犯歴のうち,1犯目が性犯罪であった者(1万898人)について,その後の再犯状況を見たものである。

7-3-4-16図 1犯目が性犯罪の者の再犯の有無別構成比

http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/54/image/image/h007003004016e.jpg

 1犯目が性犯罪であった者のうち,30.0%がその後再犯に及んでいるが,再犯の中に性犯罪を含む者は5.1%にとどまっている。すなわち,1犯目が性犯罪であった者のうち24.9%は,その後犯した再犯すべてが性犯罪以外の罪名であったことになる。
平成19年版 犯罪白書 第7編/第3章/第4節/5

いわゆる「性犯罪の再犯」という意味では再犯率は5.1%だったという結果でした。ただし、ここでの「性犯罪」は「強姦,強制わいせつ及び強盗強姦」に限られているので迷惑防止条例違反で検挙されることの多い電車等での痴漢の多くや露出(公然わいせつ)は含まれていません。

なお、平成22年版犯罪白書には強姦の再犯率について上の数字より大きい9.4%(再犯が強制わいせつだったケースを含めると14.7%)という数字が出てきます。*1

7‐2‐3‐1‐1図は,本件の罪名ごとに,調査対象者に占める再犯者の構成比を見たものである。再犯率は,強姦及び強盗で高く,殺人は低い。また,同種重大再犯率は,強姦,強盗及び放火で高く,強姦は,類似再犯(類似再犯及び異種重大再犯のいずれにも該当する者2人を含む。)を含めると,約16%の者が性犯の再犯に及んでいる。

7‐2‐3‐1‐1図  再犯状況(罪名別)
[hakusyo1.moj.go.jp/jp/57/image/image/h7-2-3-1-01.jpg:image:w800]
平成22年版 犯罪白書 第7編/第2章/第3節/1

いずれの数字にしても世間でイメージされているほど高くはないという印象を持つかと思います。では「性犯罪は再犯が多い」というイメージは虚構なのでしょうか?そうとも言いきれなくて、一部の性犯罪者は何度捕まっても性犯罪を繰り返すという事実があります。

性犯罪を3回以上繰り返している者は,107人(分析対象者71万2,898人のうち0.015%,1犯目が性犯罪であった者1万898人のうちでは0.98%)であった。これらの者は,性犯罪に及ぶ傾向が特に強い者であるといえよう。
 これら性犯罪を多数回繰り返した者の中には,性犯罪のみを繰り返す者も相当数いるが,他方で,性犯罪の間に性犯罪以外の罪名の犯罪を犯している者も多い(ただし,性犯罪以外の罪名といっても,公然わいせつのほか,住居侵入,略取誘拐・人身売買,軽犯罪法違反といった,性犯罪と関連する内容を含む可能性がうかがわれる罪名が含まれている場合もあることに留意を要する。)。
平成19年版 犯罪白書 第7編/第3章/第4節/5

性犯罪者の1%程度ですが、累犯傾向の強い者がいるというわけです。こういう人が悪目立ちするという事情はあるのでしょう。また、性犯罪被害の約8割は警察に届け出されない*2ことから、これらの統計にかからない累犯者が相当数存在する可能性もあります。

ここまでは性犯罪一般の話ですが、子供を狙った性犯罪についてはどうでしょう?犯罪白書では特に子供を対象とした性犯罪者の再犯率に関する統計は見当たらないのですが(平成27年犯罪白書にありました。追記を参照。)、過去にそのような統計が公開されたことがあります。

さて、肝心なのはやっと出てきた追跡調査による再犯率。子供(13歳以下)を対象とした性犯罪に限定した統計ですが、20.4% という数字が出てきました。


 1997年までの16年間に摘発された「女児対象強姦(ごうかん)事件」の容疑者506人のうち、昨年6月末までに強姦や強制わいせつ容疑で再び摘発されたのは103人で、全体の20・4%を占めた。
(中略)
同庁の科学警察研究所は、82−97年に摘発した女児(13歳未満)対象強姦事件の容疑者527人のうち、死亡や行方不明の21人を除く506人の昨年6月末までの状況を追跡調査した。強姦や強制わいせつで摘発された103人の内訳は強姦が47人、強制わいせつが76人で、両容疑で摘発された容疑者も20人いた。半数近い47人は、13歳未満の子どもを再び襲っていた。
警察庁の再犯率統計が公開 - rna fragments

先程の強姦の再犯率(強制わいせつの再犯を含めて14.7%)と比べると多いという印象ですが、追跡期間が違うため一概に比較はできません。*3 ともあれ大きな差はないというのが実情と思われます。

繰り返しになりますが、15%や20%だからといって再犯リスクを軽視してよいと言うつもりはありません。前科による特定業種への就労の禁止は再犯しない大半の人の就労の権利を奪うという面はありますが、子供の性犯罪被害の深刻さを考えるとやむを得ないのではないかという考えは理解可能です。

しかし、再犯リスクがどこまでならやむを得ないと判断するかは人によって違います。根拠となる再犯率が84.6%と20.4%では判断が違ってくるという人もいるでしょう。有権者に訴えるのであれば正しいデータを示して根拠に基づいた判断を促してほしいものです。

追記: 子供を狙った性犯罪の再犯率

すみません、子供を狙った性犯罪の再犯率について犯罪白書には見当たらないと書きましたが、「84.6%」のソースと同じ平成27年犯罪白書に載っているのを見逃していました。Twitterh_fukuyama さんが教えてくれました。

再犯調査対象者について,性犯罪者類型別に再犯率を見ると,6-4-4-3図のとおりである。性犯罪者類型によって,実刑に処せられた者の割合や調査対象事件の裁判確定から5年が経過した時点においても服役中の者の割合に偏りがあるほか,出所受刑者に関しては,再犯可能期間に長短があることを考慮に入れる必要があるが,全再犯率は,痴漢型が最も高く,次いで,盗撮型,小児わいせつ型,強制わいせつ型,小児強姦型,単独強姦型の順となっており,集団強姦型が最も低かった。性犯罪再犯率に限っても同様の傾向が認められた。なお,性犯罪再犯(刑法犯)の再犯率が最も高いのは,小児わいせつ型であり,その再犯の内容を性犯罪者類型に当てはめてみると,9人のうち8人の再犯が小児わいせつ型に該当した。

6-4-4-3図 再犯調査対象者 再犯率(性犯罪者類型別)
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/62/nfm/images/full/h6-4-4-03.jpg
平成27年版 犯罪白書 第6編/第4章/第4節/2

小児わいせつ型で9.5%、小児強姦型で5.9% (いずれも条例違反を含む性犯罪の再犯率)、ということです。類型別では小児わいせつ型が一番再犯率が高いとありますが、これは刑法犯のみの場合で、条例違反を含めると一位は痴漢型(36.7%)、次いで盗撮型(28.6%)という順です。

小児強姦型の再犯率が2005年調査にくらべて随分少ないのですが、これは追跡期間が5年と短く、しかも裁判確定から数えて5年なので再犯可能期間がより短い者が含まれることが理由と思われます。*4

*1:強制わいせつを含めた再犯率について文中には「約16%」とありますが約15%の間違いと思われます。

*2:参照:平成24年版 犯罪白書 第5編/第3章/第2節/2

*3:平成22年版犯罪白書の強姦の再犯率は10年間の追跡調査、2005年調査の女児対象強姦の再犯率は7〜22年間の追跡調査。

*4:参照:平成27年版 犯罪白書 第6編/第4章/第4節/1

安倍政権終焉に思う

8月28日の安倍首相の辞任表明で7年8ヶ月続いた安倍政権が事実上終焉を迎えました。ついにか、やっとか、とは思うのですが思いは複雑です。

第2次安倍政権発足前(衆院選の前)の2012年12月2日に書いたエントリに僕はこう書きました。

自民党の経済政策に対する僕の評価は一言で言うと「アクセルとブレーキを同時に踏む」もので、うまくいってもリフレ政策の意義が過小評価されかねず、いずれ政治的な圧力に負けてひっくり返されてしまう可能性すらあると思っています。
自民党の「政権公約」のトップには確かに「経済再生」です。しかし消費を冷え込ませる消費税増税を撤回する様子はないし、効率悪くて利権の温床になりそうな産業政策など、経済にブレーキをかける政策も同時に掲げています。しかも肝心のリフレ政策は党の方針というよりは安倍総裁の持論みたいな扱いで、その一点に賭けるには不安要素が多すぎます。
自民党の経済政策について

今振り返ると概ね予想通りといったところでしょうか。リフレ政策はそれなりに効いたものの、二度の消費税増税でかなりの部分帳消しにされたようです。予想外だったのはそれにも関わらず雇用の改善が続いたこと。それも二度目の消費税増税とコロナ禍で反転しそうですが…

安倍政権下での主な経済指標の動きについてはGYさんの note にまとまっています。

さて、冒頭で引用したエントリで「事情が許す限り参加したいと思っています」と言っていた官邸前デモですが、その後も何度か参加しました。リフレ派だからといって出入り禁止にはなりませんでした。

安倍総理が8%への消費税増税を表明した翌月の2013年11月6日のデモでは最後のコール「総理、わたしたちの声を聞いてください!」の音頭を取らせていただきリフレバージョンでお送りさせていただきました。「わたしたち」のところを「ポール・クルーグマン」「ジョセフ・スティグリッツ」「ケネス・ロゴフ」に入れ替えて消費税増税中止を訴えるものです。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/IMG_1839.JPG

クルーグマンスティグリッツはリフレ派&ノーベル賞経済学者。ロゴフはむしろ緊縮派で前の二人とは対立する立場ですが「そのロゴフでさえ消費税増税には慎重」という意味で含めてみました。

もちろん安倍総理はこんな声には耳を貸さず予定通り2014年4月に消費税は増税されました。

消費税増税が経済に与えたダメージは政府や日銀の予想以上のもので2015年10月に予定されていた10%への再増税の是非が問われる事態となり、2014年11月18日、安倍首相は再増税を2017年4月に延期することを決断します。これに先立つ2014年11月6日、安倍首相はクルーグマン氏と会談しこれが増税延期の決定打となったとのこと。*1

当時僕は「一年遅いわボケ!」と思いつつも胸をなでおろしたものです。

増税延期の決断が可能となったのは野田政権下で消費税増税が決まった際に民主党(当時)リフレ派の抵抗でねじ込まれた「景気条項(附則第18条)」があったからです。景気の悪化を理由に増税を凍結・延期できるというもの。しかし、安倍総理は景気条項を消費税法改正案から削除してしまいました。

危機感を抱いた僕は2015年11月に与野党に「消費税減税」を求めるネット署名を始めました。

まあ実際にはこの署名を始めるに当たってはウヨ曲折があったのですが…

2016年3月2日の官邸前デモでは消費税減税プラカードを掲げたり上の署名のビラを配ったりしました。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/IMG_3280.JPG

2016年3月12日には保守系の人が企画した #消費税減税 の「ツイッターデモ」(日時を決めて一斉にタグを付けて声をあげることでトレンド入りを目指すもの)に参加して署名の宣伝もしました。*2

2016年6月1日、安倍総理は消費税10%への再増税を2019年10月に再延期することを表明しました。よく決断したものだなとは思いましたが「増税延期」では不十分なのは明らかでした。

2016年6月12日には松尾匡さんのシノドス・セミナーに参加して署名のビラを配ったり… って、あれよかったのかな?松尾さんは「いい署名ですね」とおっしゃってくださいましたが…

署名はその後だらだらと続けてきたのですが2017年の衆院選前に締め切って自民党公明党希望の党立憲民主党の各党に提出(郵送)しました。

賛同者数は締め切り前に急増して1000人を越え、なんとか格好はつきました。どうも山本太郎氏のこのツイートの影響が大きかったようです。

民進党の分裂など土壇場になってゴタゴタがあって大変でしたし*3 あんなに賛同者数増えて欲しかったのにそれを印刷・送付するとなると結構お金がかかったりで、もう二度とやらねーとか言いながらやってましたが、まあ、いい経験をした、と思っています。

署名提出後は特に各党から音沙汰はなかったです。ちなみに提出前に提出方法の確認のため各党に電話したのですが、公明党は何度電話しても連絡がつかず、自民党は受付の人がいきなり「はぁ?それはうちに言ってくるようなことじゃないと思うんですけど?」などと塩対応、民進党は選挙前で忙しくて直接受け取れないが党本部の警備員に渡してくれれば必ず受け取る旨丁寧に対応していただきました(が、党分裂で結局持ち込みは叶わず)。

色々あって政治運動に関わるのはこれで最後にしようと思って、その後は特に何もしていません。このところ消費税減税の話題を聞かない日はないというぐらいの状況ですが、僕の署名運動が少しは影響… なんてことは全く無いというのは承知ですが、まあ、感慨深いものです。

アベノミクス」には期待はずれな面が大きかったものの不幸中の幸いというか当初最悪のシナリオとして想定していた「アベノミクス大成功からの憲法改正」という流れが回避できたのは正直ホッとしています。

「ヤツらに手柄を渡すな、左派は手柄を横取りしろ」というのは今でも有効だと思っています。左派の一部からはリフレ政策に親和的な「反緊縮」の声が高まりつつあるのですが、最大野党の立憲民主党が消極的なんですよねぇ… 消費税減税も受け入れられずに国民民主党との合流でモメましたし。

現実的には安倍総理の後継がどうなるのかがまずは問題なのですが…

安倍総理辞任のニュースを見て真っ先に思ったのは「俺、失業するんちゃうかな…」でした。

安倍政権の間ずっと体調を崩していて正直いつクビになってもおかしくない状況なのですが、おそらく今の雇用状況では同程度のスキルのあるエンジニアを雇おうとすると高くつくという理由でなんとかクビにならずに済んでいるのだと思っています。雇用が悪化すればクビにして替わりを雇うことも現実的になりますし、そもそも景気が悪化して仕事が減って替わりもいらないということになれば…

まあ安倍総理にもここから目が覚めるような積極財政を打ち出す力はないと思うので、コロナ危機の今の状況ではどのみちヤバいのですが、後継次第では一気にヤバいことになりかねません。

そんなわけで「思いは複雑」というわけです。

*1:参照: https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2014-11-21/NFDA2J6K50Y101

*2:企画した人は日の丸アイコンの人でしたが「消費税減税に右も左もないので」みたいなことを言って左派の参加も歓迎とのことでした。今見たらアカウント凍結されてるけど…

*3:分裂前に署名した人の意向を確認したり。実際片方には署名を送らないで欲しいとの要望もあったので立憲民主党希望の党にはそれぞれ違うバージョンの署名簿を印刷して送っています。