視点・論点「まん延するニセメディアリテラシー」

なんか流行ってるらしいので便乗タン。

みなさんは、「ニセメディアリテラシー」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。

これは、見かけはメディアリテラシーのようだけれども、実は、メディアリテラシーとはとても言えないもののことで、「ウヨク」や「サヨク」などとも呼ばれます。


『そんなものがどこにあるんだボクは中道ですYO!』とお思いの方も、例として、「イラク邦人人質事件は自作自演」や、「富田メモは捏造」や、「永田メールの署名は「掘江」だった」、などの噂を挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって『え?』と驚かれるでしょうか。


よく知られている格言の一つに『嘘を嘘と見抜けない人には(略』というものがあります。メディアリテラシーはメディアの嘘を見抜く力だというのです。もちろんどんなメディアにもそれなりの間違いはありますから、嘘に注意する必要はあるでしょう。しかし、それだけなら、2ちゃんねるやネットの噂などでも同じです。メディアリテラシーは嘘を見抜けるかどうかということとは全く別の話なのです。


ところが、この格言は、ネット利用者に広く受け入れられています。ネットの各地で「またアカヒか」「またマスゴミか」などと言いつつ2ちゃんねるの受け売りを垂れ流す言説があふれかえっているようです。


さて、「ニセメディアリテラシー」が受け入れられるのは、メディアリテラシーに見えるからです。つまり、ニセメディアリテラシーを信じる人たちは、メディアリテラシーが嫌いなのでも、メディアリテラシーに不信を抱いているのでもない、むしろ、メディアリテラシーを称揚しているからこそ、信じるわけです。


たとえば、富田メモ捏造説がブームになったのは、『マスコミは知り得た情報を一部しか公開しない。きっと我々一般人を騙そうとしているに違いない。裏写りになった部分にはきっと都合の悪いことが書いてあるに違いない。』という考えが多くの人に共有されていたからです。


しかし、仮に、歴史学者に『富田メモは捏造ですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないのです。『捏造といってもいろいろあるので、メモの原本を見ないとなんともいえませんが、書いてある内容は歴史学者の間の常識とは矛盾しません。しかし、だからこそ富田メモが確かに本物だとはいいきれないわけですし、今後さまざまな角度から検証されるべきもので、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。それが知的な誠実さというものですからしょうがないのです。


ところが「ニセメディアリテラシー」は断言してくれます。『アカヒ(朝日)の報道は全て間違いです。』『日経は中国と利害関係があるから反日メディアなのです。』『マスメディアはスポンサーの言いなりなのでネットの情報こそが真実なのです。』『嘘を嘘と見抜かなければ!』


このように「ニセメディアリテラシーは実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当のメディアリテラシーには決して期待できないものです。


しかし、パブリックイメージとしてのメディアリテラシーは、むしろ、こちらなのかもしれません。『メディアリテラシーとは、様々な情報に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの。』メディアリテラシーにはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。そうだとすると「ニセメディアリテラシー」はメディアリテラシーよりもメディアリテラシーらしく見えているのかもしれません。


たしかに、なんでもかんでも「真実と嘘」の単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考える態度が、本来の「合理的思考」であり「メディアリテラシー」なのです。二分法は、思考停止に他なりません。


「ニセメディアリテラシー」に限らず、真実か嘘かといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。



大阪大学中退 なんばりょうすけ

最初は南京事件ネタで書きかけたけど、そっちは id:Apeman さんにまかせた!