献血ポスター問題について

日本赤十字社献血キャンペーンのコラボ企画として漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』のキャラクターのポスターが献血ルーム掲示されたことが議論を呼んでいる。

僕個人としてはあのポスターに嫌悪感は抱かなかったし、むしろ批判者が過剰にエロティックに解釈しているように感じたのだが、そのように解釈されるのも無理はないとも思い、一定の配慮は必要だろうと思うに至った。

この件、かなり話がこじれていて、正直何を言っても徒労に終わる予感しかないのだが、考えの整理と記録のために、なぜそう思うのかをまとめてみた。

クラスタ毎の解釈の差

様々な人が様々に解釈する「宇崎ちゃん」ポスターだが、特に溝が深い「非オタク女性」と「オタク男子」での解釈の違いをまとめると以下のようになる。

非オタク女性:

  • 胸を過度に強調しているように見える
  • 表情は性的に興奮しているようにも見える
  • 絵柄がネットのエロマンガエロゲームの広告のそれと類似して見える
  • 以上の特徴から男性の性的興味を煽る表現に見える

オタク男性:

  • 胸の大きさは強調されているが一般的なキャラクターデザインの範疇
  • 表情は意地悪で小悪魔的なキャラクターを連想させる
  • 絵柄は一般的なマンガ・ゲームで見られる範疇
  • 以上の特徴から殊更男性の性的興味を煽る表現に見えない
    • 現に自分はこの絵にさほど性的興味を抱かない

特に原作を知る人の場合以下のようになるだろう。

  • 宇崎の胸の大きさは作品世界に違和感を導入するためのギミックである
    • 「巨乳」表現は半ば戯画的なもの
    • 作中人物は基本的に宇崎の胸に関心を寄せていない
    • サービスシーンはあるが一般的なマンガにで見られる範囲
  • 宇崎の表情は大好きな先輩の弱みを見つけてイタズラ心を刺激されている表現
    • ポスターを見る人が先輩(桜井)になったつもりで見るのが正しい見方
    • 先輩を小馬鹿にしてイジるのが宇崎なりの親愛の情の表現

解釈の差はどこからくるか

このような解釈の差が生まれるのはなぜか。いくつか理由があると思われる。

記号の多義性に対する認識の違い

まず非オタクの方がオタクにくらべて図像を一義的・記号的に解釈する傾向が強いように思われる。非オタクには胸を強調した表現が「巨乳!エロい!」という記号に見える。記号に過ぎないならば、例のポスターは「巨乳!エロい!」と大書してあるのとさして変わりはない。だとすれば明らかに扇情的だし場違いである。

一方でオタクは一見ステレオタイプなマンガの記号的な表現にも実際には多義性があることを知っているので、その意味を一義的には解釈しないようだ。特に単体のイラストではなく原作があるものならある表現の作品世界での機能や意味付けは様々であり得るので、原作を知らないなら「詳細不明だがとにかく「そういうキャラ」である」とありのままニュートラルに受け止める。

この「ありのまま受け止める」という態度は、現実に胸の大きな女性が目の前にいる時の態度に近い。胸が魅力的に見えるからといって目の前の女性は別に自分を挑発しているわけではない、と認識する態度だ。一部のオタクが胸を強調した表現の記号的解釈に対して「胸の大きな女性を差別している」と感じるのは、そのように解釈する人が自分のように現実の女性にも同様の態度をとるものと誤解しているからではないか。

性的視線の不快さに対する認識の違い

一般に女性は、男性が思う以上に男性からの性的視線に敏感で、それを不快に感じている。女性は自らに向けられた視線が専ら性的な関心に集中していると、人格を持ち尊厳を持った存在としての自分が無視され、人間として扱われていない(モノのように扱われている)と感じる。

これには、女性にとって自らの身体の性的魅力は、第二次性徴に伴い自分の意志とは関係なく発生したものであるが故に、アイデンティティに馴染まないまま浮いた形になりがちであることが関係しているのかもしれない。また、実際に性暴力の被害やその危険に晒される体験があるために、男性の性的関心が女性の尊厳を踏みにじる態度と強く結びついた形で認識されるようになっているのかもしれない。

性的視線というものは、自らがそれに晒された場合に感じるだけではなく、誰かが誰かを性的に見ているということを第三者の立場で感じることもある。それもまたいたたまれない気分にさせられるものであり、その視線が自らにも向けられうることに身震いさせられるものでもある。

そのような性的視線の存在は、女性の性的魅力が強調された視覚的表現(イラストや写真)からも感じられる。そのような表現は、表現者の性的視線の存在なしには生まれないからだ。また、特に商業的な表現は鑑賞者の需要を満たすために制作されていることから、女性を性的視線で見ることへの需要があり、表現はそれを肯定しているように解釈される。

一方で男性の側は、自分が向ける性的視線がそこまで重く受け止められていることが納得できない。まず、性的魅力は女性の個性の一部だと思っているし、そこに関心が向くことがあっても、それで女性の尊厳を無視しているつもりはない。

男性は、女性に人間としての魅力を感じることと性的魅力を感じることは両立していると感じている。ただし、相手の人間としての魅力が不明なままでも性的魅力のみを感じることはありうる。誰もがそうというわけではないが、多くの男性は誰だかわからない女性の裸体に興奮する。

そのことが、男性の性的視線は「女性を性的なモノとして「のみ」見ている」という認識に繋がっているようだ。確かに多くの男性にとって、性衝動は視覚的刺激によって自動的に惹起されるもので、それは「性的なモノ」にのみ反応している。しかし、男性の精神は性衝動に支配されているというわけではなく、精神の別の部分、おそらくは過半を占める部分は目の前の女性を一人の人間として見ている。

とはいえ、男性の性的な視線には独特の雰囲気があるようで、普通でない精神状態を思わせるものがあるらしい。その雰囲気の変わりようは性衝動に精神が乗っ取られたように見えても不思議はないもので、そうではないのだと言ったところで理解を得るのは難しいかもしれない。

女性差別の再生産という観点

女性の不快感というのは単なる気分の問題ではなく、女性差別に関わる問題でもある。女性を性的なモノに貶めることを肯定する表現が公共の場に掲示されることで女性差別が再生産され、将来に渡って女性が不利益を被ることに対する憤りでもあるのだ。

ここで問題なのは、原作のマンガ作品の表現が読者に与える影響ではなく、ポスターとして切り出された表現が原作を知らない人たち(主に非オタクの一般人)に与える影響だ。原作も込みで、そればかりか「萌え」文化全般を敵視している人はいるのだが、そういう人ばかりではないし、これはそういう人たちの主張とは独立に検討に値する観点だ。

差別の再生産について「宇崎ちゃん」ポスターの寄与分などあったとしても微々たるものではないかという意見はあるだろう。しかし、影響があるのだとすれば「塵も積もれば」であり、それが「宇崎ちゃん」ポスター程度の表現が世の中に溢れている結果である以上、「宇崎ちゃん」ポスターだけを無視してよい理由はない。

たとえば米に含まれる有害物質の規制を考えてみよう。日本人がほぼ三食毎日米を食べる以上、一生分の有害物質の曝露量が健康に影響を与える量に達しないように、全ての米について有害物質の濃度を規制するしかない。おにぎり一個分に含まれる有害物質の量が微々たるものだとしても、おにぎり1個を見逃すということはできない。

もっとも、そもそも女性差別の再生産にメディアの影響がどの程度あるのかということについては、長きに渡る議論があるものの結論は出ていない。十分なエビデンスがない以上、法規制のようなハードな規制には馴染まないだろう。予防原則だけで表現の自由に関わる規制を行うことには慎重であるべきだ。

しかし、だからといって、問題提起し対話と交渉によって状況を変える努力を否定する理由もない。ケースバイケースで、なくても困らない程度の表現であれば改められ、それで差別の再生産のリスクが少しでも減るのなら、悪いことではない。

結局ポスターはアウトなのかセーフなのか

ここまで見てきたように、一定のリテラシーがあるか、あるいは原作を知っている者からすれば、「宇崎ちゃん」ポスターに対する不快感はある意味「誤解」に基づくものとも言える。しかし、「宇崎ちゃん」を見るのが初めての一般人、特に女性がこれを不快に思うのにはもっともな理由がある。誰もがオタク的リテラシーを持つべきとも、誰もが原作を読むべきとも言えない以上、不快に思う方が悪いとは言えない。

献血ルームは不特定多数の献血者が献血を行うための場であり、特定の人が献血しにくくなるということになるのは望ましくないであろう。あのポスターがあることで、少なからぬ人がもっともな理由から不快な思いをするために献血しにくくなるのだとしたら、一定の配慮は必要なのではないか。

ポスターがあることで増える献血者がいて、その数がポスターのせいで減る献血者の数より多いのなら、献血の重要性に鑑みてポスターは正当化されるのではないかという、功利主義的な議論もある。しかし、差別の再生産の懸念があるのなら、そのような正当化には倫理的な問題がある。

あのポスターが引き起こす不快感の程度、その一般性、差別の再生産の蓋然性、といった程度問題に関する不確かさがあるので、「やめるべき」から「配慮が望ましい」までグラデーションはあるものの、基本的にはアウトだろうというのが僕の見解になる。

とはいえ、「宇崎ちゃん」のファンからすれば、その表現のエロスに誘引されている面は否定できないにしても、「宇崎ちゃん」が好きなのは単にエロいからではなくて、キャラや世界観を気に入ってのことだろうから、キャラに興味のない人にエロだエロだと言われたら気分が悪いのは十分理解できる。

このエントリが、互いに相手の立場を理解した上で議論する上で少しでも役に立つなら幸いである。

はてなグループのダウンロード

年末にはてなグループが終了予定とのことですが、終了後にグループを閲覧可能にするかどうか未定とのことなので必要なグループはダウンロードしておくことにした。「従軍慰安婦問題を論じる」とか。

以下、結果は無保証なので自己責任で。

基本 wget でミラーするのだけど単純にミラーするとカレンダーを延々辿っていって終わらないので、そのあたりをスキップするようにしてみた。

wget -r -N -l 500 --no-remove-listing --page-requisites --no-parent --convert-links --adjust-extension -w 1 --random-wait --reject-regex '\?mode=reply$|\?mode=edit$|/calendar/?$|/calendar\?.*|/keyword/[0-9][0-9][0-9][0-9]-[0-1][0-9]-[0-3][0-9]|/captcha\?.*|/[0-9][0-9][0-9][0-9][0-1][0-9]$' グループのURL

--reject-regex オプションでスキップするURLのパターンを書いている。グループのカレンダー、日付のキーワード、日記のカレンダーは前後に辿るリンクを無限に辿ってしまうのでスキップ。ついでに掲示板の返信リンク、キーワードの編集リンク、captchaのリンクもスキップするようにした。

これで一応無限に辿ることなくダウンロードできた。リンクの変換も指定してあるのでローカルで閲覧もできるが、Firefox だと(?)掲示板が表示できない。というか、元のサイト上でも表示できない… どうも http://ad.hatena.ne.jp/js/google_afc.js の読み込みが終わらないのが原因らしいので、このスクリプトの読み込み部分を消してしまうことにした。

find ダウンロードしたフォルダ -type f | awk '{ printf("'\''%s'\''\n",$0) }'| xargs sed -i 's/<script language="JavaScript" src="http:\/\/ad.hatena.ne.jp\/js\/google_afc.js"><\/script>//g'

sed -i は指定されたファイルを上書きするので find で間違ったフォルダを指定しないように注意。

上のコマンドだと限定公開の日記はダウンロードできないのだけど、そのへんはwget のクッキー関係のオプションを使えばなんとかなるはず。

人喰いの大鷲トリコ

人喰いの大鷲トリコ、どのくらい進んでるのかいまいちわからないのだけど、少しずつ懐いてきたトリコが言うこときいたり空気読んで助けてくれたりするようにはなってきました。

マップの謎解きは今のところ変にいじわるなところはなし。迷う所ではナレーションでヒントが出る親切設計。ナレーションは大人になった主人公の回想という形で入ってくるのでお節介感なく映画のワンシーンを演じてる気分で聞けます。

立体的で入り組んだマップなので自分がマップ全体のどのへんにいるのかいまいち把握できなくて、あの場所へ行く、みたいな目的意識を持って進むというよりは、とにかく仕掛けが出てたら作動させて前に進む感じ。ICOワンダと巨像もそうだったけど、高所作業多いです。苦手な人は注意。

トリコの生き物っぽさは、見た目の質感や細かい仕草、自律的に行動する部分もよくできていると思います。犬や猫に似ていながらも巨大生物らしさがあり、親しみやすさと得体のしれなさのバランスが絶妙です。人間との距離感も近すぎず離れすぎず、野良猫みたいな感じでリアル。

巨大な生物がそばにいて、高低差の激しいマップを探検する、というシチュエーションなので、上下方向の視線移動が必然的に多くなるのですが、カメラワークが映画的というか、コントローラーの操作にリニアに応答しないところがあって、ちょっと難あり。あわてずのんびりプレイするほうがいいゲームみたいです。

というか、そもそも横長の画面で視界が制限されてる感じが強いのが辛い… こういうゲームこそVRが向いてるのかもしれません。PSVR対応アップデートとかあるかなー。

まあ、このゲームのためにPS4買った甲斐はあったと思えるだけのものはありました。随分待たされたし、危うくPS3買わされるところだったけど…




(初出: facebook)

生産性はなぜ上がるのか

前回のエントリに対するあままこ(id:amamako)さんの応答へのお返事です。

さて、前回のエントリの主張をざっくりまとめると「潜在成長率がプラス(数%)になるので失業を防ぐためにはそれに見合った経済成長が必要」「そのことは「生産性で人間をはからせない」こととは矛盾しない」ということです。

それに対するあままこさんの反論をざっくりまとめると「潜在成長率がプラスになるのは自明ではない」「潜在成長率をプラスにするような思想こそが「生産性で人をはかる」思想なのではないか」ということでしょうか。

これに対する僕の回答は以下になります。

まず「潜在成長率がプラスになるのは自明ではない」は Yes です。僕の議論は近代資本主義を前提にしています。産業革命以前の社会では成り立たない話でしょう。

「潜在成長率をプラスにするような思想こそが「生産性で人をはかる」思想なのではないか」もそういう傾向はありうるという点では Yes と言えるでしょう。

しかし、僕が問題にしている数%(飯田泰之氏の説だと2%)の潜在成長率というのは、社会に「生産性が人間の価値の全て」という風潮が蔓延するほどのものとは思えません。そこまで万人に成長へのコミットメントを要求するものではないし、過半の人が一切成長しなくても成り立つ話です。

あままこさんは「人間は「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という文化・価値観に縛られてるから、生産性を向上し利益を上げようとする」のではないかと主張していますが、それは僕の実感とはかけ離れています。

僕の職業はプログラマですが、製品コード以外にもちょっとしたスクリプトを書いて作業工程を自動化したりしています。これもわずかながらに生産性を向上する営みの一つですが、別にそうしないと「ダメな人間」とは思いません。いや、「ダメなプログラマ」とは思うかな… しかし「ダメな人間」にならないためにやってるわけではないのです。

この手の生産性向上というのは「楽して同等以上の結果(=利益)を出したい」というのが動機になっている面が大きくて、それは言い換えると「楽はしたいけど今より貧しくはなりたくない」「楽して今より豊かになるならもっといい」ということです。

もちろんスクリプトを書くのが「楽」かどうかその人の能力によります。でも解かれるべき課題とそれにマッチする才能を持つ人が出会えば生産性の向上は必然的に起こるのです。それこそ「働きたくない」と思っているからこそ起こってしまう。そういう出会いがない人が大半かもしれませんが、それでもトータルで年率2%程度の生産性の向上は起きてしまいます。

貧しいとか豊かというのは、単にお金のことではなくて、自分のやりたいことをどれだけできるかということです。やりたいことというのは、僕の場合だと天体写真を撮るのがそうですし、「国境なき医師団」に寄付するのだってそうですが、人それぞれでなんだっていいんです。

僕も含め多くの人は働いて得たお金でその人が価値があると考える活動をするために働いています。資本主義社会ではお金であらゆる活動が可能になるので、価値観は多様でもみんなお金を稼ごうとします。「経済人(合理的経済人)」というのはそういうことだと思っているのですが違うのでしょうか?*1

もちろん、お金がそのようなものであるからこそ「お金こそが普遍的な価値」「生産性は絶対的な価値」と思いつめる人も出てきますが、それは倒錯的な考えです。アマチュア天文家が天体望遠鏡を買うために働いているのに働き詰めで夜に星が見れないのだとしたらそれは本末転倒でしょう。

それでもそういう倒錯的な考えが蔓延っているのだとしたら、それは稼いだお金がもっぱら生存のために使われていて、多様な価値観のために使われていないからではないでしょうか。つまり「命=お金」が生活実感になってしまっていると。そしてそういう状況は、労働力を安く買い叩ける状況、すなわち労働力が余っている状況、要するに経済成長が足りていない状況なのでは?


最後に「生きるに値しない命がある」というナチスの思想が「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観の延長線上にあるのかという点について。

『自由からの逃走』も『啓蒙の弁証法』も読んでいないのですが、ナチスの場合「生産性」それ自体が自己目的化しているというよりは、それこそ富国強兵の思想、国家や民族の繁栄こそが絶対的な価値、という価値観が先にあっての「生産性」だと認識しています。これは多様な価値観から生まれる多様な活動を産むための「生産性」という価値観とは真逆です。

相模原の津久井やまゆり園の障害者殺傷事件(相模原殺傷事件)はこれとは少し違うと思っています。この事件の容疑者は自ら「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ってはいたものの、国家主義民族主義的な色合いは希薄です。彼も後にナチスユダヤ人虐殺は間違っていた、しかし障害者の安楽死は問題ないと語っています。*2

これは頭の痛い話なのですが、彼自身は日本が財政破綻の寸前に追い込まれていると信じていて、福祉の負担を軽減しないと社会が保たないと考えているのです。ここまでは多くの人が信じているストーリーとまるで変わりはありません。実際のところ、これはひどく誇張されたストーリーなのですが、それはひとまず置きます。

カルネアデスの舟板の寓話のように「誰かを犠牲にしないと誰も助からない」という状況では誰かを犠牲にすることが正当化される場合があります。この状況では犠牲者の選別は多くの人がやりたがらない、しかし多くの人はやって欲しいと思っている仕事です。彼は自分がそれを敢えて引き受けたことを評価されるべきだと思っているフシがあります。

ここまでは割とありふれた、ある意味善意と言ってもいい動機なのが怖いところです。正直「いや、それは現状認識が間違っているから」で逃げたい気分です。「意思疎通がとれない」かどうかという彼の選別基準はあまりにも雑だろうと批判はできても、ではお前はどんな基準で選別するのか、と言われたら何も言えません。せいぜい黙って自分が舟板から手を離すぐらいしかできない気がします。

実のところ彼は「生産性」を命の選別の基準としては挙げていません。生産性のない人にお金を回すから財政が悪化するという話はしているようですし、*3 「生産能力のない障害者は不幸をばらまく」とも言っているようですが、*4 命の選別という点ではむしろコミュニケーションを人間の条件として、それを裏返して人とつながれない人は人間ではない、殺していい、と短絡しているように見えます。

相模原殺傷事件は事件の構図があまりにステレオタイプなのでナチズムや優性主義と関連付けられがちですし、そこから「生産性」の話になりがちなのですが、「短絡」に至る手前までの理路は比較的「常識的」なもので、だからこそ心が震えます。

「「生きるに値しない命」などない!」
「しかし、誰かを犠牲にしなくては誰も生きられない状況にあるとしたら?」

僕はこの問いに対する確かな答えを持ち合わせていません。でも「まず状況の方を変える努力を最大限尽くそう」とは言えると思います。また「その状況認識が間違ってないか落ち着いて考えよう」とも言うべきだと思います。

僕が適正な経済成長を重視するのは、成長しない経済環境にはそういった状況に陥るリスクがあるし、なにより悲観的な状況認識を生み出しやすいからです。もちろん経済成長していれば万事大丈夫ということは全くないですが。*5

これで答えになっているでしょうか?言い足りないところや詰めきれてないところはたくさんありますが、ひとまずこれでお返事とさせてください。

*1:Wikipedia の「経済人」の説明だと拝金主義みたいなニュアンスが強いのですが…

*2:参照:「ヒトラーとは考えが違う」植松聖被告が獄中ノートに綴った本心

*3:参照:被告との対面 事件を問い直す - 特集ダイジェスト - ニュースウオッチ9 - NHK

*4:参照:「善意」の暴走、「生産性」追求の果て 続く差別との闘い | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞

*5:資源や環境の有限性からいずれは成長できなくなる(潜在成長率がゼロになる)日が来るかもしれませんが、僕は何十年、何百年も先のことを予測できるほど賢くないので、そういうことは誰か賢い人に考えてもらいたいです。今はそれより大事なこと、今できることがたくさんあります。

経済成長はなぜ必要か

あままこ(id:amamako)さんのこの記事へのお返事です。

長らくブログでの議論からは離れていたのですが、Twitter のつぶやきで済ますには込み入った話ではあるのでエントリにします。あままこさんのブログも何年ぶりかもわからないくらい久しぶりに読んだので、色々前提を見逃しているかもしれませんが、ご容赦ください。

「富国強兵と経済成長をごっちゃにしてるところで読むのやめた」とコメントした安冨氏の記事はその後も読んでないのですが、この件に関してはたぶん差し支えないと思うので読まずに書きます。

僕は日頃から「経済成長が大事」と主張していますが、そこで僕が言いたいのは「生産性を上げていこう」という話ではない、という話をします。

そもそも生産性というのは嫌でも上がっていくものなのです。労働者の日々の創意工夫や突発的な技術革新によって、同じモノを作ったりサービスを提供したりするのに必要なコストは下がっていきます。言い換えるとより少ない労働者で同じだけのモノ・サービスが供給できるようになります。*1

ということは、ただ生産性が上がるばかりで需要の拡大が伴わないと労働者が要らなくなるわけで、失業が発生したり所得が減少したりします。「供給ではなく需要が問題」というのはそういうことなのです。つまり、生産性の上昇に見合っただけの需要の拡大=経済成長が必要である、というのが僕の考え方です。なので、経済成長と言っても年率にして数%程度が必要だと言っているに過ぎません。

以上は『経済成長って何で必要なんだろう?』の飯田泰之氏と岡田靖氏の説に依拠しています。*2 このあたり、はっきり理論化されて定説になっているわけではないので、どこまで正しいのかわからないのですが、ともあれ、僕はそういう立場から「経済成長が大事」と言っているわけです。

なので、僕の経済観からすると、あままこさんの言う「「経済成長を維持することを第一に考える社会」というのは、「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」」というのは前提からして違う、と言わざるを得ません。

生産性の向上は、経済成長のために強いられているのではなく、個々の生産者が利益を追求する過程で必然的に生まれるもので、しかし経済成長がないと副作用として失業やらラッダイト運動やらが発生してしまいます。そういう順番の理屈なのです。

なので、僕の立場からは「生産性で人間をはからせない世の中」と経済成長は両立します。

というよりは、経済成長がなければ労働力は余り、余った労働力を選別する際に「生産性で人間をはかる」論理が顕在化してしまうので、低すぎる経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」の実現の足を引っ張ることになるのではないでしょうか。

経済成長があれば「生産性で人間をはからせない世の中」になるというわけではありませんし、そもそも所有権の根拠を労働に求める以上「生産性で人間をはかる」考え方からは逃れられないのかもしれませんが、誰かのクビが切られなければ自分のクビが切られるという状況では「あいつの方が生産性が低い!」という足の引っ張り合いが横行してしまいます。

生きられた現実を「生産性で人間をはかる」論理で正当化し、その論理に絡め取られてしまって非人道的な政策を容認してしまう、といったことも起こるかもしれません。そういう意味では、「生産性で人間をはからせない世の中」を作りたいなら経済成長はあった方がいいのではないでしょうか。

一方で経済がどうであろうと経済成長を「富国強兵」の言い換えぐらいにしか思っていない人がいるのも事実でしょう。安倍首相だってそうかもしれません。市民の生活よりも日本を偉大な国家たらしめるために経済成長率は高ければ高いほどいい、そして国家に貢献しない生産性の低い「生きるに値しない命」*3 は… みたいなことを考えている人だっているでしょう。

でも「富国強兵」を否定するために経済成長を否定する必要はないのです。僕ならただ一言「「生きるに値しない命」などない」と言います。それ以上の理屈など不要ではないでしょうか。

*1:ここまでの話は、モノやサービスを作るのに必要な資源は足りているというのが前提で、資源が枯渇して同じモノを作るのに必要なコストが上がっていくような状況では話は違ってきますが、現状あるいは向こう数十年はトータルで見れば資源不足は問題にならない、という認識で話を進めます。

*2:

*3:ナチスの障害者殺害政策(T4作戦)のキーワード。

Ubuntu 18.04 の Shotwell で Flickr にログインできない

Ubuntu 18.04 の Shotwell (0.28.4)から Flickr に写真をアップロードしようとしたところ、間違ってログアウトボタンを押してしまい、しょうがないなーと思ってログインしなおそうとしたらログインできませんでした。

最初は yahoo.com のアカウントのメアドとパスワードを入れてもパスワードが違うと言われてログインできず、おかしいなと思いブラウザ上から yahoo.com にログインしたところ普通にログインできて、同じメアドとパスワードで flickr にログインしようとするとやはりパスワードが違うとエラーに。

わけがわからないのですが、とりあえずパスワードリセットをかけてパスワードを再設定したところ数分ラグがありましたがログイン出来るようになりました。

問題はその後で、Shotwell の Flickr ログインの方は OAuth の許可画面が出るところまではたどり着いたのですが、許可のボタンを押しても Flickr authorization failed となってアップロードに失敗します。

"Flickr authorization failed" でググると、どうも Shotwell のバグのようで既に修正済みとのこと。ずっとログインしっぱなしだったから気付きませんでした…

ソースコードの修正は2018年11月14日。Ubuntu 18.04 の Shotwell の最新は 0.28.4 で更新は11月12日ということで、修正は入ってません。

しょうがないので PPA から最新の 0.30.4 を入れることにしました。

上の修正をコミットした人がやってる PPA だから大丈夫でしょう。

パッケージ構成が変わったのか shotwell-common が削除されたりしてビビりましたが、無事アップロードできるようになりました。デフォルトでダークモードになってましたが、これは設定で変えられるようです。

はてなブログライター v0.9.1

はてなブログライター v0.9.1 をリリースしました。新機能はなく、バグフィックス版です。

変更点

  • hbw.rb で初回投稿を行う前に hbw.rb を実行した場合にエラーになるバグを修正しました。
  • hbw.rb で初回投稿を行う前に hbwdl.rb を実行した場合にエラーになるバグを修正しました。

hbwdl.rb がエラーになった場合の注意点

hbwdl.rb が上記バグでエラーになった場合、エントリファイルが1件ダウンロードされた状態で停止しますが、このファイルは次に hbw.rb を実行する前に必ず削除してください。そうしないとこのファイルがローカルで新規作成したエントリファイルと誤認され、hbw.rb で新規エントリとして投稿されてしまいます。

実は hbwdl.rb 開発中にダウンロードされたエントリが新規エントリとして投稿される現象が発生してその後再現しなくて気になっていたのですが、どうやら上の現象と同様の現象のようです。

開発中のバグでダウンロードしたエントリの投稿データファイル(.dat)の保存に失敗した場合に、対応する dat ファィルのないエントリファイル=新規エントリファイルとして扱われてしまったようです。hbwdl.rb を再実行してもそのようなファイルに対しては上書きを行わず同じエントリのファイルを連番のファイル名で保存するので問題は解決しません。

ということは上記バグ以外でもIOエラーや強制終了などの理由で .dat が保存されなかった場合は同じ現象が発生するはずですが、これはどうしようかな… .dat 保存完了までエントリを仮のファイル名で保存して最後にエントリファイルの書式のファイル名にリネームすればいいのかな?これは次のバージョンで対応するかもしれません。