荻上チキ『ウェブ炎上』

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

チキさん(id:seijotcp)の単著。献本して頂いたので少し念入りに紹介してみる。

どんな本か

この本は一言で言うとウェブの「力学」を学ぶためのガイドブックだ。「炎上」という言葉に象徴されるような、ウェブコミュニケーションで見られる一見奇妙な盛り上がり(サイバーカスケード)がどういう仕組みで起こるのか、そしてそれは何を生み出すのか、ということを日本のネットユーザにはお馴染みの様々な事例を通じて描き出す。

「力学」の部分は社会心理学社会学の比較的枯れた理論を参照しており、著者自身の独自の主張は抑えられている。強めの主張の後では読者が極論に流されないように引き戻すような呼びかけが必ずあったりして、著者の立ち位置はまさにガイドと言ったところ。

カスケードの発生

本書が扱うのはいわゆる「炎上」というよりは、より一般化した「サイバーカスケード」と呼ばれる現象だ。サンスティーンが提唱したこの概念は「サイバースペースにおいて各人が欲望のままに情報を取得し、議論や対話を行っていった結果、特定の――たいていは極端な――言説パターン、行動パターンに集団として流れていく現象」(p34-35)と定義される。

要するに日本語(ネット語)で「祭になる」と形容されるような現象を指す。誰かがインセンティブを供給して扇動するのでなく、人々の自律的な動きがひとりでに一つの方向に整列していって流れができて、その流れが周囲を巻き込んでより大きな流れとなり「祭会場」に注ぎ込む滝(カスケード)となる、といったイメージだ。*1

滝に打たれて難儀するのは、有名人、企業、政党、一般人、等々、上から下まで右から左まで様々。本書でも割と幅広い事例をピックアップしていて、階層やイデオロギーの違いに関わらず共通する力学を提示する。

僕は以前「「ネット右翼」は思想じゃなくて発想が極端な人たちなんじゃないか」と書いたことがあるが、一定の環境では思想傾向にかかわらず認知構造(世界の見え方・リアリティ)が極端に流れ、元々の思想を強化し、過激な言動をしがちになる。集団分極化と呼ばれる現象だ。これがカスケードを生み出す直接の力になる。

集団分極化自体はネットと以前の昔から存在する現象であり、本書でもまずそこを確認している。その上でウェブコミュニケーションの仕組みが集団分極化を触媒するという点を指摘する。

集団分極化を促す環境とは、似たような考え方・ものの見方をする人たちが集まって閉鎖的なコミュニケーションを繰り返すような環境だ。ネットは個人個人が自分の見たい部分だけを切り出せるメディア(デイリー・ミー)であること、双方向のメディアであることから、切り出された閉じたネットワークは、その中で似たもの同士が出会い同調意識を高め合うような空間(エコー・チェンバー)になること、ネットワークが巨大で成長性が高いため、エコー・チェンバーの閉塞感が緩和され、そこから離脱する動機を持てないこと、などといった傾向は集団分極化を促す方向に作用する。

カスケードがもたらすもの

カスケードは単に「祭会場」を水浸しにするばかりではない。カスケードの発生がカスケードを巡る議論のカスケードを呼び、より多くの人々を巻き込んでゆく。

サイバーカスケードといえば、例えばA対Bという意見の対立があったとして、Aの方向に意見が極端に傾いてしまうこと、あるいはAとBの根深い対立が築かれてしまうことが問題とされます。しかしここで重要なのは、そもそもA対Bという問題ばかりが排中律(真偽はイエスかノーだけ、答えはAかBだけ。AでなければBであり、BでなければAである、その中間は存在しないという状態)的にフレームアップされることで、A対CあるいはC対Dというような、他の議論の可能性そのものが抹消されていくことです。
荻上チキ『ウェブ炎上』 p132-133

本書では意見の対立のシーソーが傾くことを立ち位置のカスケード、他の議論の可能性が抹消されていることを争点のカスケードと呼んで、二つのカスケードが互いを強め合うような状態を二重のカスケードと呼ぶ。

争点のカスケードはメディア論で言うところの議題設定効果を生み出し、時には誘導尋問的に特定の立ち位置の選択を余儀なくさせ、立ち位置のカスケードを促進する。こうなると、問題の議題設定から距離を取る態度自体が「立ち位置」として解釈され、争点のカスケードは逃れがたい渦のようになる。

社会を変えたい人にとっては二重のカスケードの巨大なエネルギーは魅力的ですらあるが、バランスを失うことで発生するそのエネルギーはほとんど制御不能な破壊的な性質も兼ね備える。バランスを取り戻すにはどうしたらよいのか?

本書では対抗カスケードによる中和を一つの解として挙げている。著者自身が構築したジェンダー・フリー・バッシングへの対抗カスケードの事例も紹介されているが、一般にどう構築すればよいか、というところまでは踏み込めていない。実際のところこうすればOKというのは難しいのだろう。対抗カスケード自体が二重のカスケードの渦を生み出さないという保証もないのだから。

カスケードを制御するアーキテクチャ

対抗カスケードは「毒をもって毒を制する」ような性質があり、万能ではない。となると、カスケードが無秩序に成長しないようなアーキテクチャをネット上にあらかじめ構築することはできないか、という議論が出てくる。

カスケードそのものはネットのアーキテクチャ、あるいはそれを支える自由主義思想の根本に由来する部分があり、根絶はできないし、その必要もない。要は二重のカスケードが議論の地平を根こそぎにしてしまうことなく、Web上で実りある議論が成立しうるようなレベルにカスケードをコントロールできればいいのだ。

本書ではまずサンスティーンのマスト・キャリー・ルールを紹介している。これは反対の立場のサイトにリンクを張ることを義務づけることでエコー・チェンバー間を繋ぐ伝声管を構築しようという話だ。しかしこれは個人がリンクを張るという努力を繰り返さないと維持されないという問題がある。

次に紹介されるのは、はてなダイアリーの「はてなキーワード」や「おとなり日記」だ。文脈を無視してキーワードだけで繋がるこの仕組みは、アーキテクチャに組み込まれたマスト・キャリー・ルールとして機能するというわけだ。

もっともラストワンクリックの壁は意外に厚い。自分と異なる意見を読む際の心理的な壁はもっと厚い。日頃から様々な意見が緩やかに流れる場が求められ、著者はハブサイトに期待を寄せる。が、紙幅の関係からか、いかにしてハブサイトがそのような場になりうるのかというあたりは不明瞭だ。

ハブサイト運営者のセンス(DJの選曲センスみたいなセンス)に依存する部分を越えて何ができるのだろう? あるいはハブサイトの競争が情報の量や質を越えて意外な接続をもたらす捻りを加えるセンスを競い合うフェーズに達した時に何かが起こることを期待できるのか?

『ウェブ炎上』を越えて

『ウェブ炎上』はガイドブックとしてよくできており、ブログにWeb論を書くような人には是非読んで欲しい一冊だ。オーソドックスな理論を押さえておくことは議論の広がりに貢献するにちがいない。

一方で本書は一般化した理論の紹介と問題提起が中心になっているため、個々の事例に対してのツッコミは浅い傾向がある。事例の大半は日本のもので、最近の事例についてはほぼ漏れなく2ちゃんねるが絡んでいるにも関わらず、日本のローカルな状況や、2ちゃんねる固有のアーキテクチャとの関連については掘り下げていない。

そのため、個々の事例は紹介された一般的な理論だけでは説明しきれていない部分もある。事例から理論を導くのではなく、理論を説明するために事例を紹介するトップダウンな構成になっているので、個々の事例にはどうしても説明からはみ出す部分が出てくるのだ。

個別事例に固有の部分については本書の目的からすれば無視してよい部分だが、ある程度一般性のある部分もある。僕が気になったのは、イラク人質事件のデマについて議題設定効果を問題にするところ。

「争点のカスケード」で議題設定が固定化されるのは一般には注意すべき点だが、一方でそれ自体は避けがたい。だからこそ設定される議題の中身にまでもう一歩踏み込んだ議論が欲しかった。つまり、固定化されやすい議題が無意識的に、あるいは戦略的に選択される可能性について警戒する必要があるということ。議題の質を捨象してしまえば「争点のカスケード」の指摘が相対化メソッドに堕するおそれもある。

イラク人質事件の場合なら「自己責任論」よりも「自作自演説」の方が強力でいやらしい議題設定になる。他の議論の前提となる事実関係の根本を疑うもので、他のあらゆる議論がこの議論の行方次第で無意味になってしまうからだ。*2これは一例に過ぎず他にも様々なパターンがあるだろう。議題のスジの良さを判断する具体的な知恵は、争点のカスケードの巨大化を防ぐのにきっと役立つはずだ。

と、いうふうに、本書の先に進むネタは色々あるだろう。薄い部分や議論の余地のある部分は読者のために残されているとも言える。ガイドブックは自分の足で旅に出る人のためにあるのだ。


*1:タイトルでは「炎上」と言いつつも、本書では一貫して「カスケード」をキーワードにしていて、火ではなく水のイメージを喚起しているのが面白い。

*2:歴史修正主義が何十年にもわたって生き延びて、時々政治の表舞台にまで浮上してくるのも、議論の足止め効果の強さ、あるいは不愉快な議論を免除する効果の強さが人を惹きつけてやまないからだろう。