〈表現〉と〈表象〉(Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題 その2)

先日 Mrs. GREEN APPLEコロンブス」MV 問題について結構長文のエントリを書いた。

最初は誰にも読んでもらえなかったと思っていたが、週明けにどこかのニュースアプリに掲載されたらしく、いつもはアクセス数100件/日以下の当ブログが、17日には3万件/日というアクセスがあった。

おかげで結構酷いことも言われたが、ごく一部の人には真面目に、あるいは好意的に読んでもらえたようだ。いいがかりや悪口の類については個別の応答はしないが、「擁護」ではないこと、MV を解釈するだけならあのレベルの「分析」は必要ないというのは言っておきたい。

エントリに書いたように、コロンブスを偉人として扱うテーマの取り方だけでも削除・謝罪に値すると思うし、僕から見ても表象の選択・組み合わせ・噛み合わせと言った点で誤解される余地は少なからずあり、不適切な表現だったと思う。あの MV 自体を「擁護」する気はさらさらない。単に僕から見て言いがかりに近い形での批判があまりに多いと感じたのでそれを咎めただけだ。

秒単位でシーンを書き起こしたのは MV が削除されてしまった今、反証可能性を担保する必要があったこと、スクリーンショットを貼らずにシーンを参照する必要があったことから、仕方なくやったまでのことだ。細々と検討したのも、異なる解釈と読み筋の妥当性を比較するためにやったことであり、基本的に初見で無理なくあの解釈の大枠は頭に入ってくるはず、というか僕はそうだったのだが、なんで日頃から批評や分析に勤しんでいるタイプの人たちが… という話をしたつもりだ。

前置きはこのくらいにして、「なんで日頃から批評や分析に勤しんでいるタイプの人たちが…」のところの掘り下げが足りない、というご指摘があったり、あの後プライベートで知人と議論したりして、色々考えたことをまとめておく。一気にまとめる余力がないので、何回かに分けてエントリ化していこうと思う。

〈表現〉と〈表象〉

まずはちょっと抽象的な話から初めたいと思う。人が他の人に何らかのメッセージを送る時のことを考える。

メッセージを表現するのに、メッセージの送り手は様々な要素を組み合わせる。要素それぞれが意味を持ち、メッセージの受け手はそれらの意味を繋ぐことで送り手が伝えたい内容を読み取ることができる。要素の意味は多義的でありうるが、通常は要素の組み合わせが文脈を作り、文脈の中で意味が確定していく。こうした意味を成す要素の組み合わせのひと塊、あるいはメッセージを構成する要素の組み合わせ全体を、以下では〈表現〉(presentation)と呼ぼう。

〈表現〉を構成する要素や要素の組み合わせの中には、それが置かれた場や時代における社会的文脈により、象徴的な意味あいを帯びるものがある。それは比喩や類比によってより豊かなイメージを喚起して〈表現〉の読み取りに影響を与える。要素やその組み合わせに付随するそうした意味合いを以下では〈表象〉(representation)と呼ぼう。

「表現」や「表象」という言葉は様々な分野で用語として様々な定義で使われるので、上の定義は混乱を招くかもしれないが、他に良い言葉が思いつかなかったので、以下本文中では山括弧〈〉で括った形で上の定義に従う言葉であることを示しつつ使用する。上の定義はあくまでこの記事でのローカルな定義だと思って欲しい。

〈表現〉と〈表象〉は重なり合う

〈表象〉は〈表現〉の上に、言わばプロジェクションマッピングのように投影されて、〈表現〉の読者はそれらが合成された像を見てメッセージを読み取ることになる。〈表現〉の作者はそれを利用して少ない要素からより多くのことを伝えようとしたり、より豊かな印象を与えたりするように、計算しながら〈表現〉を作り込む。

しかし、〈表象〉は社会的文脈に依存するところが大きく曖昧さがあり、計算ミスにより、あるいは作者と読者の間の文化的ギャップにより、〈表象〉が〈表現〉に対してノイズとして働いてしまい、メッセージを歪めてしまうこともある。特にアート的な〈表現〉は〈表象〉によるブーストに頼るところが大きいため、難解になったり誤解を招いたりするリスクが大きい。

「A」を〈表現〉、「B」を〈表象〉として模式的に図示すると以下のようになる。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/presentation-representation.png

「魚ワイン」の喩え

と、模式図を描いてはみたものの、いまいちピンとこない気がする… ちょうど面白い例があったのでこれで考えてみよう。

昨日 Twitter を見ていたらこんなツイートが流れてきた。ペッシェヴィーノ(直訳すると「魚ワイン」)というイタリアのワインが日本人には醤油に見えてしまうという話題だ。

https://rna.sakura.ne.jp/share/diary/PescevinoRosso.jpg

ウマニ・ロンキ ペッシェヴィーノ・ロッソ | イタリアワイン・イタリア食材の通販ならカ・モンテ より

確かにサムネを見ても醤油にしか見えない… 実際に見ればサイズが違うからそこまでではないだろうが、知らずにぱっと見せられたら「そういうデザインの醤油瓶?洒落てるね!」などと思ってもおかしくない。

ここで「著名人がこの「魚ワイン」をラッパ飲みしてぶっ倒れた」という事件があったとしよう。それを新聞が以下の見出しで報道したとしたらどうだろう。

「岸田総理、醤油を一気飲みして救急搬送」

これは明らかに誤報である。事実関係が間違っているだけでなく、事件の意味あいも全く変わってしまう

事情を知らない目撃者が醤油の一気飲みだと誤認するのは仕方がないかもしれないが、目撃情報だけで裏取りせずに上のように報じてしまったらそれは新聞社側が悪い。どっちみち総理は辞任、内閣総辞職間違いなしなんだからどうでもいいじゃん、で済ませていいだろうか?

MV 問題で言うと、ワインが〈表現〉で、瓶が〈表象〉だ。Mrs. はワインでみんなを酔わせようとしたが、多くの人はひと目見て醤油だと思って口にすることすら拒否してしまったり、口にしてみたがどうしても醤油を舐めたような錯覚から逃れられずワインの味がわからなかった。喩えるならそんなところだろうか。

でも、だからといって報道や批評において「Mrs. は醤油を飲ませようとした」と言い切ってしまったら、それは嘘だろう。一般人ならともかくプロがそれでは困る。

ただし、この例えでは喩えきれてない部分もある。瓶の中身がワインなのか醤油なのかは調べれば客観的に判断できる。しかし〈表現〉の場合はどうしても曖昧さは残る。瓶から中身だけすんなり取り出せるとは限らないからだ。〈表象〉に多くを頼るアート的な〈表現〉の場合は特に。

あれは醤油だったのか、ワインだったのか、議論の余地なく断定するのは難しい。しかし、だからといって「瓶がアレなんだから醤油なんだよ」は雑過ぎるし、テイスティングだって目を閉じて口にしてみるぐらいのことはやってみても良いのではないか、というのが僕の主張だ。

もっとも、メッセージの受け手は必ず〈表現〉と〈表象〉を合わせた形でメッセージを受け取り、そこから影響を受けるわけで、受け手にとっても社会にとっても、その結果または効果こそが重要なのだから、「そういうメッセージ」と見做してかまわない、という考え方もあるだろう。状況によってはそう考えるだけのもっともな理由もある。次回はその話をしようと思う。