2014年からメディアの歴史を振り返るという SF 作品(日本語字幕版)。
via: 表現の自由に無頓着な国民性〜インターネットはパブリックフォーラムであるべきではないか(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
アンテナ低くて今更見た。調査報道とメディアで後で書くって言ってたのは、EPIC2014に出てくる newsbotster みたいなのがメディアの中心になっていいのかってこと*1。Web2.0 とか言ってる人たちはそれでいい、いや、それでいいようにオレ達がする! ってことなんだろうけど。
newsbotster 的な参加型メディアはアルゴリズム次第では今のマスメディアよりは良質なニュースが共有されるはず、という気もする。市民の市民による市民のためのメディア! でも参加型メディアというのはメディアと市民が一体化し報道に対する責任が個々の市民に分散しすぎて、市民とメディアの対立関係から生まれる緊張やバランスが失われてしまうのではないか。
アルゴリズムが民意を反映していない! という批判の切り口もありうるだろうけど、あまりに技術的な話になるし、企業秘密の壁に阻まれてそこまで踏み込めないかもしれない。いずれ公共性を担保するという理由でアルゴリズムの公開制度くらいはできるのかもしれないけど。
僕はネットの参加型メディアは既存メディアに対する対抗勢力のままでいいんじゃないかという気がしている。「2ちゃんねる」というのはテレビのチャンネルの隙間という意味だけど、参加型メディアはのポジションはそのぐらいが相応ではないか。
追記: 暴走するナントカ
くだらないだじゃれを思いついてブクマコメントにメモったついでに見つけた。
「ビッグブラザー」が問題なんだろうか。Google なり Googlezone なりが全くコントロールの意志を持とうと持つまいと、フィルタリングというのは原理的に情報を排除することで成り立っている以上、現実を歪めるわけで、一つのフィルタに依存することは危険だ。でもみんななるべくなら一つのフィルタで済ませたいと思ってるし、実際それで済むならそのほうがいいに決まってる。問題はフィルタがもたらした帰結に誰が責任をとれるかということだと思う。
Googlezone が「ビッグブラザー」ではない場合、コントロールの意志を持たないからこそ、彼らの作ったアルゴリズムによるフィルタリングに何かよくない効果があっても責任を問いにくい。単に不可抗力というだけじゃなくて、なにしろ彼らのアルゴリズムはフィルタリングされる側の意志を反映するようになっているのだから、元を辿ると誰が誰をコントロールしているのかわからなくなる。もちろん因果関係と責任帰属は別なんだけど、じゃあ誰のせいにする? って話になった時に、こういう状況だと誰に責任があると言っても説得力が欠けてしまうのではないか。
どうせ誰も責任とれないなら、アルゴリズムに必ずランダム要素を入れるとかして検索結果にゆらぎを入れることを義務づけるとかしたらどうだろう? RANDの神様*2にお祈りするというわけ。