このニュースが無茶苦茶怖かった。
なんでそんなに怖いのかというのが自分でもひっかかっている。なんというか、RPG で街の防具屋の NPC が買い物中に突然襲ってくる、みたいな恐怖?
怖さの源泉はおそらく客と店という役割関係からくる距離感や信頼感を裏切る形で犯行が行われたというところにあるのだろう。
女性が路上で拉致されて暴行を受けるというのはさほど珍しい話ではないが、こういう場合には単に加害者と被害者という以上の関係はイメージされない。無関係の見知らぬ乱暴者が襲ってくるというイメージ。だから目の前で社会的な役割関係が成り立っている相手は基本的に心配無用なはずなのだ。
もっとも役割関係からくる信頼を裏切る形の犯行というのは他にいくらでもある。上司が部下にセクハラとか、先生が生徒にセクハラとか、あと、床屋が剃刀で客を殺す、とか。それはそれで怖いけれど、これらの場合では役割上の必然から生まれる権力関係があからさまなので、まったくの想定外というわけではない。被害者になりうる側は自分がそういう立場であることを心のどこかで知っている。
一方が相手の抵抗を無効化する力を持っている場合、それが悪用される可能性は想定の範囲内で、むしろそれは「あってはならないこと」として積極的にイメージされている。こういう事件でマスコミなどがやたらと「信頼を裏切る行為」などと糾弾するのは、そうすることで力関係のバランスをとらなければならないと意識しているからこそだ。
しかしステーキ屋の店長と客という関係には、そういう危険な力関係というのは想像しづらい。今回の事件の場合は店を密室にできる力が悪用されたのだが、普通はその程度の力では犯行の露見までは抑えられない。加害者がどこにいる誰なのかがバレバレだから。
もっとも客としてはそこまで考えた上で「ステーキ屋の店長が合理的であるならば私を襲うことはありえない」と判断して安心して食事する、というわけではない。安心というのはそんな判断すらしないことであり、何も考えずに済むというのが安心できる状態だ。
一度こういう事件があると「何も考えずに済む」という安心は失われてしまう。せいぜいできることと言えば不安を打ち消すことだけだ。それには心配しなくていいと納得できるだけの理由をわざわざ用意する必要があり、それには心理的にも社会的にもコストがかかる。
最近心ある人の間では「治安は悪化していない」「確率的にはたいしたことはない」「それより交通事故に気を付けろ」みたいなことが言われていて、ミギー萌えの僕としても個人的にはそういう考え方を支持するのだけど、そういう物言いがどこまで通用するかというと何とも心許ない。みんな今まで統計や確率計算で「安心」していたわけではないのだから。
「まん延するニセ科学」のキーワードである「合理的な思考のプロセス」は大事だが、これは一般人には導入コストが高く、ニーズにも十分応えられない。二分法は不合理と言ってみても灰色の世界は不安であり、不安の解消こそが望まれているのだから。
「合理的な思考のプロセス」を大事に、というメッセージには、不安を抱えたままタフに生きろ、あるいは「コントロール可能な脅威はもはや脅威ではない」とドライに割り切れ、というような裏メッセージが隠れている。失われた「安心」を夢見て二分法にすがる人たちには、その裏メッセージこそが受け入れがたいのだと思う。
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