東浩紀氏の発言をめぐる一連の騒動について、東氏を擁護するという文脈で欧州でヘイトスピーチへの法規制が進んでいるという話が出てきた。
SFでもなんでもなく、端的な事実として、現代のヨーロッパでは、ヘイトスピーチへの法規制が進んでいる(ナチズムの記憶のあるドイツに限定された動きではない)。「公共空間の言論」から、特定の形の主張を「平等と反差別」のための「市民的合意」として、国家権力をもって排除するということである。もちろん、ヘイトスピーチというものは、特定の属性を持った人的集団の排除を扇動するものであり(これは、イギリスのCriminal Justice and Immigration Act 2008において、ヘイトクライムについて1986年からの人種に基づく嫌悪、2006年からの宗教に基づく嫌悪に、性的指向に基づく嫌悪が追加されたさいに、同性愛行為などへの批判は含まれず、あくまで同性愛「者」へのヘイトであることが明確にされたことでもわかる)、言論・表現の自由という面では歴史認識問題以上に臨界的なものではあろうが、しかし、特定の主張の「公共的空間」からの排除であることは間違いない。日本における「人権擁護法案」は、実際の条文はこのような水準のものではないにもかかわらず、右派・保守系組織が危機感を表明してきたのは、そのような意味では(私個人の法案への賛否は別として)根拠がないわけではない。
僕はこの話を知らなかったので参考になった。が、東氏の意図がそういうところにあるのなら第一に欧州の例を挙げるべきだったし、状況が全く違う日本の南京事件を例に挙げるのは不適切であったし、そもそも東氏が南京事件否定論を「ヘイトスピーチ」と認識しているかどうかだって定かではない。
そういう意味でこれが東氏の擁護になっているのかというと甚だ疑問。というか、あとから出てきてるくせに一連の騒動の焦点を外しすぎということで、僕はかなり頭にきてこんなことを書いた。
[これはひどい] 「「…南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである」とする東氏の主張を非難」既に与えられてるのに今更何言ってんだって意味で非難してるの!! 2008/12/15
はてなブックマーク - 児童拳銃 - rna のブックマーク - 2008年12月15日
それに対して崎山さんは「現時点で場が与えられているということと将来も場が与えられているということは同等ではない」と追記で返答しているが、修正主義に近い立場の人物がつい去年まで総理大臣やってたこの国のこの状況で、二大政党の双方に修正主義にコミットする人が存在しているような政治状況で、場が奪われる現実的な懸念なんて最低でも向こう数年はなかろうし、場を奪えという動きすら聞いたことがない。だから、そういう意味での事例として唐突に南京事件を例に挙げるのはむしろその「パフォーマティヴな効果」のほうがよっぽど懸念事項だと思う。つまり、将来の可能性の話ではなく現在の危機の話をしているのだと誤読される可能性だ。
ここで、言い出しっぺの東自身が想定していないかも知れないパフォーマティヴな効果を考えてみるべきかも知れない。「声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである」という〈べき論〉的な発話から、〈歴史修正主義者〉が耳が傾けられず、場所が与えられていないという主観的事実を構築してしまう可能性。そのことは、陰謀理論と同様に〈弱者〉の言説である〈歴史修正主義〉にとって、自らの惨めさではなく、敵である〈邪悪な主体〉の不正、翻っては自らの〈正しさ〉の証拠だということになる。
パフォーマティヴな効果 - Living, Loving, Thinking
そもそも東氏が現在の危機ではなく将来の可能性の話を言っているというのも東氏のテクストからは読み取れないので、それが誤読なのかどうかも定かではないが。。。
それはそれとして…
ヘイトスピーチを法規制すべきかどうか、という話題は東氏の騒動とは独立に興味深い話題ではある。というか、そもそも歴史修正主義の主張自体はヘイトスピーチなんだろうか? ヘイトスピーチの定義自体が議論の種になってしまうのだが、歴史修正主義の主張自体は具体的に差別行為を扇動するものではなく、これを違法とするのは過剰だと思っている。
もちろん欧州諸国禁止されているヘイトスピーチにはホロコースト否定が含まれるわけだが、反ユダヤ主義の歴史の重みを考えると軽々には批判できない。欧州がホロコーストを繰り返さないことと、日本が南京事件を繰り返さないこととでは、前者の方がずっと重く困難な課題であるだろうと想像されるからだ。
歴史を無視して自由主義の原則を貫くのは、スタート時点での格差を無視して自由競争経済の原則を貫くのと同じ程度には不正義であると僕は思う。