クロード・ランズマン『SHOAH ショア』

学生時代に書籍版を読んでいたけどずっと見れなかった映画。昨年秋に Blu-ray 版が出てすぐ買ったのだが、9時間半の映画ということでなかなかまとめて見る時間と気力がなかった。ゴールデンウィークの機会になんとか最後まで見た。

SHOAH』は1970年代から80年代にかけてナチスユダヤ人虐殺(いわゆるホロコースト)の生存者や関係者、目撃者といった事件の当事者へのインタビューを記録したインタビュー映画。映画が公開されたのは1985年(日本語版は1995年)。

書籍版を読んだ当時、証言者の語りは40年も前の遠い過去を振り返っているという印象があったが、戦後70年を過ぎた今になって高精細のカラー映像で証言を見ると、タイムスリップして30年分事件に迫ったような妙な感覚がある。古い映画ではBGMや効果音の使い方に時代を感じてしまうことがあるが、この作品では音声が人の声と環境音だけで構成されているのも古びた印象を与えない理由の一つだろう。*1

この作品は基本的に全編インタビューと字幕で構成され、全て現在(取材時点)の映像が使われている。過去の資料映像や過去を再現するような映像は、博物館の模型を撮った映像を除き使われていない。事件を過去の物語ではなく記憶を介した現在の現実として描いている。
書籍版の日本語版は字幕のままではなく発話をなるべく正確にテキストに起こしたものになっていて、実際一部を読み比べてみたが、字幕ではわかりにくくなっていたり細部が欠落している部分がある。しかし、証言者の表情、声のトーン、間のとり方、現在の暮らしぶりが感じられる背景など、映像から得られる生々しさには圧倒されてしまう。

証言者の使う言語が多様なため、インタビューの一部は字幕が通訳の発話に合わせて表示されるため(実際通訳の言葉を訳しているのだと思う)歯がゆい部分もあったが、映像で見ておいて良かったと思った。

証言はテーマ毎に分割され再構成されている。一つの出来事を巡って複数の証言が少しずつ重なり合って鎖のようにつながることで事件の輪郭が描かれていくところに、揺るがし難いリアリティを感じる。このリアリティの前では陳腐な否定論は意味を成さない。

事件の一番の当事者である殺された人は証言できない。ユダヤ人証言者の多くは「特務班員」という直接または間接的に犠牲者の死に関わった人たちだ。加害者と被害者の狭間に立たされた彼らの苦悩は計り知れない。

書籍版の解説によると、一人は最初のインタビューでは支離滅裂な言葉しか言えなかったという。ランズマンが粘り強く対話を繰り返すことで、感じたこと、体験したことを言語化できるようになったという。

一方でナチスの関係者の証言では、生々しい内容と裏腹の語り口の軽さやあからさまな自己正当化を目の当たりにして何とも言えない気分にさせられる。ホロコースト否定論に言及する者さえいる。

もっともナチス関係者のうち二人の映像は隠し撮りのモノクロ映像で表情などは不明瞭だった。一人だけ顔出ししていたワルシャワ・ゲットーの管理に関わった元官僚は、時折怯えるような表情を見せていた。罪悪感から逃げているのか、あるいは自己憐憫なのか。

証言者の中には傍観者と言うべきカテゴリーの人達もいる。絶滅収容所周辺に住んでいたり、収容所に移送されたユダヤ人が住んでいた地区に住んでいたポーランド人たちだ。ポーランド人たちは何が起こっていたか知っていたか、あるいは薄々気付いていた。いずれにせよ取材時点では凄惨な事件があったことを知っている。

しかし住民たちの語り口にはどこか他人事のようなよそよそしさがあり、ランズマンが微妙な質問をしていくとユダヤ人に対する偏見や敵意が見え隠れしてくる。元々そうだったのか、あるいはユダヤ人がいなくなって少なからず利益を得ている立場であることの後ろめたさからの正当化なのか。

ホロコーストを研究している歴史学者へのインタビューもある。ユダヤ人を迫害するナチスの政策は、ほぼ全てが歴史上のユダヤ人迫害政策の焼き直しであり、唯一絶滅政策だけがナチスの発明だったという。

絶対に超えてはならない最後のステップを踏み越えたという点でナチスの罪はいささかも減免できるものではないが、しかし、虐殺への階段を築き、その半ばに今も立っているのが現代の我々なのではないか。

(初出: facebook)

*1:音声がモノラルというところに古さを感じる人もいるかもしれない。僕は片耳が聞こえないので、そのあたりの感覚はよくわからない。