疑似科学批判の意味

上で引用されている僕のブクマコメントは同じく駝鳥さんの記事子供にとって有害なものへのコメント。後から加筆した部分が抜けているので補足すると、これは疑似科学の扱いに関する部分へのコメントです。親の主観に基づく教育の是非(というかどこまで何が許されうるか)についてはにわかには判断しかねるので保留。

さて、「無批判にゲーム脳を受け入れるメンタリティ」はある程度しょうがないと思います。あれのインチキを純粋に科学知識から見抜くようなリテラシーを大多数の一般人が持てるなんてことはありそうにないです。一定の権威主義というか科学者コミュニティなりメディアなりの見識を信頼しなきゃ日常生活送れません。だからこそ権威ある立場の人や組織やコミュニティは自らの信用を守るためにベストを尽くす責任があるのです。

「水伝」に関して言えば精力的に批判している人たちは主に科学者や自然科学の専門教育を受けた人たちだと思います。そういう人たちは、単に間違ってるからダメというよりは、あれを科学だと思われたら困るというのが理由で批判しているようです。なにが困るかというと、科学者達の大変な努力の成果であるところの、よく検証された真っ当な学説の信用が低下してしまうのが困るのです。偽札が流通することで通貨の信用が落ちるようなものです。

そうなると一般の人は科学のフリをしたインチキに騙されやすくなるし、もっともっと科学の権威が損なわれれば科学のフリすら無価値になって、結局は勘や噂を信じる(これは結局自分の信じたいものを信じるということになりがちです)しかないということになって欲望や不安に付け込まれ放題になるでしょう。


あと、科学の権威を振りかざす(?)事の問題についてですが、うーん、科学を「お上」の側と見るか「市民」の側と見るかの差なんですかね。

そのうえで、というか、だからこそ、科学というものを、情報権力という観点から見た場合、このリソースを政府が握ってしまうことによって生じる情報操作ということには、私たちは常に敏感にならなければならないという、そういう視点が私にはあります。
子供にとって有害なもの(コメント欄)〜例によって補論(+ C amp 4 +)

科学 = 政府(あるいは国家) ではない、というか、そうならないための「学問の自由」ではないでしょうか。科学的な正しさは政治的な正しさから独立しているということと、(少なくとも建前上は)科学的な正しさは国際的にオープンなプロセスで検証され、誰かが恣意的に黒を白と言いくるめたりはできない、ということが科学的な通説の信頼性を担保しているのです。

もちろん現実はそんな風に理想的にはいかないけど、少なくとも自然科学の場合は大多数の科学者が間違ってると思うような「仮説」は大抵実際間違ってる*1といっていいくらいには信用できると思うのですが、どうでしょう。


*1:大多数の科学者が正しいと思っていたけど間違っていた学説はいくらでもあるでしょうけども。