経済成長はなぜ必要か

あままこ(id:amamako)さんのこの記事へのお返事です。

長らくブログでの議論からは離れていたのですが、Twitter のつぶやきで済ますには込み入った話ではあるのでエントリにします。あままこさんのブログも何年ぶりかもわからないくらい久しぶりに読んだので、色々前提を見逃しているかもしれませんが、ご容赦ください。

「富国強兵と経済成長をごっちゃにしてるところで読むのやめた」とコメントした安冨氏の記事はその後も読んでないのですが、この件に関してはたぶん差し支えないと思うので読まずに書きます。

僕は日頃から「経済成長が大事」と主張していますが、そこで僕が言いたいのは「生産性を上げていこう」という話ではない、という話をします。

そもそも生産性というのは嫌でも上がっていくものなのです。労働者の日々の創意工夫や突発的な技術革新によって、同じモノを作ったりサービスを提供したりするのに必要なコストは下がっていきます。言い換えるとより少ない労働者で同じだけのモノ・サービスが供給できるようになります。*1

ということは、ただ生産性が上がるばかりで需要の拡大が伴わないと労働者が要らなくなるわけで、失業が発生したり所得が減少したりします。「供給ではなく需要が問題」というのはそういうことなのです。つまり、生産性の上昇に見合っただけの需要の拡大=経済成長が必要である、というのが僕の考え方です。なので、経済成長と言っても年率にして数%程度が必要だと言っているに過ぎません。

以上は『経済成長って何で必要なんだろう?』の飯田泰之氏と岡田靖氏の説に依拠しています。*2 このあたり、はっきり理論化されて定説になっているわけではないので、どこまで正しいのかわからないのですが、ともあれ、僕はそういう立場から「経済成長が大事」と言っているわけです。

なので、僕の経済観からすると、あままこさんの言う「「経済成長を維持することを第一に考える社会」というのは、「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」」というのは前提からして違う、と言わざるを得ません。

生産性の向上は、経済成長のために強いられているのではなく、個々の生産者が利益を追求する過程で必然的に生まれるもので、しかし経済成長がないと副作用として失業やらラッダイト運動やらが発生してしまいます。そういう順番の理屈なのです。

なので、僕の立場からは「生産性で人間をはからせない世の中」と経済成長は両立します。

というよりは、経済成長がなければ労働力は余り、余った労働力を選別する際に「生産性で人間をはかる」論理が顕在化してしまうので、低すぎる経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」の実現の足を引っ張ることになるのではないでしょうか。

経済成長があれば「生産性で人間をはからせない世の中」になるというわけではありませんし、そもそも所有権の根拠を労働に求める以上「生産性で人間をはかる」考え方からは逃れられないのかもしれませんが、誰かのクビが切られなければ自分のクビが切られるという状況では「あいつの方が生産性が低い!」という足の引っ張り合いが横行してしまいます。

生きられた現実を「生産性で人間をはかる」論理で正当化し、その論理に絡め取られてしまって非人道的な政策を容認してしまう、といったことも起こるかもしれません。そういう意味では、「生産性で人間をはからせない世の中」を作りたいなら経済成長はあった方がいいのではないでしょうか。

一方で経済がどうであろうと経済成長を「富国強兵」の言い換えぐらいにしか思っていない人がいるのも事実でしょう。安倍首相だってそうかもしれません。市民の生活よりも日本を偉大な国家たらしめるために経済成長率は高ければ高いほどいい、そして国家に貢献しない生産性の低い「生きるに値しない命」*3 は… みたいなことを考えている人だっているでしょう。

でも「富国強兵」を否定するために経済成長を否定する必要はないのです。僕ならただ一言「「生きるに値しない命」などない」と言います。それ以上の理屈など不要ではないでしょうか。

*1:ここまでの話は、モノやサービスを作るのに必要な資源は足りているというのが前提で、資源が枯渇して同じモノを作るのに必要なコストが上がっていくような状況では話は違ってきますが、現状あるいは向こう数十年はトータルで見れば資源不足は問題にならない、という認識で話を進めます。

*2:

*3:ナチスの障害者殺害政策(T4作戦)のキーワード。