気分がすぐれないのだけど、これだけは返事しておいたほうがいい気がしたので。
ブクマコメントより:
「バックラッシュ批判のため」に「性的嗜好」を「嗤った」わけではないです。ていうか僕もブルマ好きですが。『ブルマーはなぜ消えたのか』は純粋におもしろおかしかったのでおもしろおかしく紹介したわけですが、何がどう面白かったのかを解題するというのは無粋な話であり、しかしながら僕もかなり無粋な人ですので、やってみましょう。
まず前提として、性的指向(この場合は嗜好の方がいいんだろうか?)そのものは自由ですし、人に迷惑がかからない範囲で自由に発散すればいいのです。しかし、元々性的な意味合いのない日常的なシーンに無闇に欲情するのはみっともないし、相手に失礼です。
フェチシズムというのは、社会的な文脈に関わらず記号に機械的に反応するところがあるので、その機械的な様は普通に面白可笑しいのですが、真面目に考えれば反社会的ということでもありますから否定的な反応も出てきやすいものです。要するに客観的に見れば笑えたりキモかったりするのが普通。*1
だから公衆の面前でそれを口にする場合、一定の慎みは必要です。真面目に話すならそういう話し方があるし、悪趣味な、あるいは自虐的なネタとして語るやり方もあるけれど、そういう捻りを入れること、「敢えて」しているというポーズを見せることが、「無闇に欲情するのはみっともないし失礼」という前提を共有している(価値判断はともかくとしてそのような世間の認識を前提としている)というメッセージになり、周囲の人に「対立はあれども同じ地平で話している」という安心感を与えることになるのです。
ところが、『ブルマーはなぜ消えたのか』の第1章(の抜粋)は、あまりにあけっぴろげで「常識の斜め上」を行っている。しかも社会批評の導入部としてあれをやられると、動機が疑われかねない。これは大丈夫なのか? というのがまず面白い。
さらに「中年男子諸君、立ち上がれ!」とか「ささやかな愉しみを享受するために」「知的"闘争"」とか言ってるし、もうわけわかんない。フェチシズムそのものは自由だけど、日常的にハァハァできるような社会を! みたいな主張は異常(あくまで出版社の煽りで実際にはそこまで言ってないのかもしれないけど)。
また、あの尋常じゃない第1章は筆が滑ったというよりは、著者自身強力にプッシュしているフシがあるのも趣深い。あそこを「中略」にするのは意図的にやっているとしか思えないし、自らブルマ検索サイトで宣伝してたり、google に広告出してたり、あらぬ方向に必死なのが可笑しい。ていうか google の広告、先日のエントリのブクマコメント一覧ページにも出てくるのだけど、リンク先が出版社じゃなくて著者のサイト。まさか個人で広告出稿したのか?
でも、そういう事をやればやるほど真面目な本のはずのあの本がマジなのかネタなのかわからなくなってくる罠。「トンデモ本」の元々の意味は、著者の意図とは別の意味で面白可笑しく楽しめる本のことだけど、そういう意味でトンデモな物件に見えつつも、むしろトンデモとして扱われる事も望んでいるようなフシも見受けられてなんだかわけがわからなくて可笑しい。
そして極めつけに可笑しいのが、著者のあけっぴろげな語りを読めば読むほどタイトルの『ブルマーはなぜ消えたのか』への答えが、「アンタみたいなのがいるからだろ!」というツッコミにしかならない気がしてくるところ。
ブルマーがなぜ消えたのかと言えば、直接的なきっかけは、履かされる側が反対したから。以下高橋一郎他『ブルマーの社会史』第5章(角田聡美「スケープゴートとしてのブルマー」)*2からピックアップ。
- 1993年、シンガポールの日本人学校で新任の体育教師がブルマー着用を義務化しようとしたところ生徒や保護者から抵抗を受け大騒ぎになり、日本の新聞でもとりあげられた。
- 1994年、女子高生が体育教師からブルマーを着用しなければ減点と言われ、市民オンブズマンに救済申し立て。
- 1994年、愛知県立稲沢東高校で生徒会がブルマー改善を求める。
- 1994年、作新学院中等部が授業で宇都宮裁判所を見学した際、ある女子生徒が「私たちは、履きたくないブルマーを履かされています。これは人権問題ではないでしょうか」と裁判官に質問した。
シンガポールの事例はシンガポールの文化とも関わる事なので少し特殊なのだけど、これがきっかけで新聞の投書でブルマー問題がとりあげられるようになったらしい。同じく『ブルマーの社会史』第4章(掛水通子「ブルマーの戦後史」)によると、1960年代から1980年代にかけて中高生だった女性(大学生の母親)を対象にしたアンケート調査ではブルマーはおしなべて不評。「下着みたいで嫌」「体の線が出るのが嫌」「太ももを出すのが嫌」「下着がはみ出すのが嫌」「生理の時ナプキンの形が浮くのが嫌」「男子の視線が嫌」等々。
ブルマーの社会史―女子体育へのまなざし (青弓社ライブラリー)
- 作者: 高橋一郎,谷口雅子,角田聡美,萩原美代子,掛水通子
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2005/04/01
- メディア: 単行本
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元々そうなのに、80年代から90年代にかけて投稿写真誌などでブルマーに対する男性の性的な視線が世間一般に露見し、90年代はブルセラブームで社会問題にまで発展するに至り、ブルマーはエロの記号という認識が当の女子学生にまで広がってしまったのが敗因なのではないでしょうか。
「ささやかな愉しみ」なら個人の旨の内に秘めて愉しめば、せめて同好の士がこっそり集まって愉しめばよかったものを、雑誌メディア等が表の商売のネタにした時点でこうなるのは既定路線だったのだと思います。いわゆる「性の商品化」論に与するつもりはないけれど、見る側が見られる側からどう見られるかを配慮できなければ、視線を遮られるのは当たり前なのです。その遮られ方が多少乱暴だったところで、配慮しなかった我々が文句を言える筋合いではありません。
『ブルマーの社会史』も結構笑える
上で紹介した『ブルマーの社会史』は社会学者が「近代日本の女性の身体とセクシュアリティ」を分析した至って真面目な本ですが、これをまとめた高橋一郎氏はブルマーに対しては色々思うところがあるようです。以下「はじめに」より一部抜粋。
ブルマー、という言葉に対し、読者諸氏はどのような思いを抱かれるだろうか。
ある世代、おそらく二十代半ば以上(中略)の男性には、ある種の、甘酸っぱくも気恥ずかしい感慨をよみがえらせる方も多いだろう。中学校・高等学校の体育の時間に女子のブルマー姿に胸をときめかせた想い出は、この世代の多くの男性に共有されているものだろう。だが一方で、学校の体育の時間にブルマーを着るのがいやでたまらなかった、というような話も、同世代の女性からはよく聞く。男性教師や男子生徒の視線が存在するパブリックな空間で、ナイーブな思春期の少女達が脚部の付け根までの露出を強制させられるのである。女性側の嫌悪感も当然かもしれない。
しかし、当時の男子生徒にしてみれば、異性の視線にたじろぎうつむく女子生徒の恥じらいの態度が、またたまらなく胸をときめかせた…というような思い入れを熱く語りだすときりがないので、このくらいにしておく。
『ブルマーの社会史』 p7 (強調なんば)
高橋氏の筆先、やや熱いか…
なにやら胸に秘めた思いがあるようです。
このような絶滅しつつあるブルマーに対し、かつてのブルマー愛好世代の男性の一人として惜別の情を吐露することは、本書の目的とは関係ないのでここではひかえておこう。本書は、純粋に社会科学的な問題意識から出発するものだからである。
本書の主要な問いは次のようなものである。前に述べたような、今日的な通念からすればきわめていかがわしい存在であるブルマーは、なにゆえ、かつてのわが国に普及しえたのだろうか。
『ブルマーの社会史』 p8 (強調なんば)
大人です。こうでなくては。共著者が全員女性ということを考えると当然かもしれませんが。
さらに、本書のいまひとつの重要な問いは、近年のブルマー消滅に関するものである。かつて圧倒的な威力をふるったブルマーの権力作用は、わずか十年あまりの間に突然その力を消失してしまった。このあまりにも急激なブルマー王国の落日は、なにゆえ生じたのだろうか。このブルマーの消滅は、ひとえにブルマー愛好家たちにとってだけ痛切なものではなく、身体意識についての社会学的研究の重要な対象となりうるだろう。
『ブルマーの社会史』 p9 (強調なんば)
何一つ間違ったことは言ってないはずなのに、破壊的な面白さがにじみ出てきます。
学識×情熱×ブルマー=破壊力。
僕は高橋さんには昔お世話になったことがあり、人柄なども含め真っ当な学者であることは知っているので安心してネタとして笑えますが、社会学とかよく知らない人だと軽く目眩がしそう。
ただ、『ブルマーの社会史』はブルマーが生まれ日本に伝わり学校教育の場に広まるまでの経緯は詳しいのですが、肝腎の(?)ブルマー消滅の経緯はそれほど詳しくありません。5章がそれですが、分量的にも足りないし実証的な突っ込みが不足しているとも思います。ブルセラ世代に対しても聞き取り調査とかやればよかったのに。
『ブルマーはなぜ消えたのか』の書名を見たとき、ひょっとしてその点を補完しうる何かか? と一瞬期待したのですが。。。