定義に拘ることで何が嬉しいかよくわからない。
- 長崎市長銃撃事件について(Apes! Not Monkeys!)
- 長崎市長銃殺事件に関して気になる報道等(bewaad institute@kasumigaseki)
- 長崎市長銃殺事件に関して気になる報道等についての追記(bewaad institute@kasumigaseki)
まず、定義から言って「テロ」と断言できる要素はまだないというのはその通りだし、そういう段階における新聞各社の社説の早漏っぷりは異常、というのもその通り。そして、各社の社説が「長崎」→「反核」→「平和主義」+「暴力団」→「右翼」→「軍国主義」=「右翼によるテロ」みたいな自由連想で作文したような無理矢理な理屈で、断言は避けつつも今回の事件がまるでテロであるかのように印象づけることに腐心しているのは見え見えで、なんともイヤラシイのですが、そうする意図も明らかじゃないですか?
要するに犯人の動機がどうあれ、公職者の暗殺は「テロ」と同じ効果を持ちうる、だからテロに対するのと同様の心構えが必要だ、ということです。
もちろん動機が単なる私怨で、他の公職者にはあてはまらない当事者間に固有の事情によるものだとはっきりしていればそんな心構えは不要です。しかし、動機がはっきりしない段階でも、はっきりしないからこそ、公職者は自分の振る舞いの何が命取りになるか読めないという恐怖を感じ、そこに悪意のある者に付け込まれる隙が生まれる、ということがあり得るのです。
今回の事件の場合、現時点でも行政に関わる(犯人個人と市の間の)トラブルが原因と疑われているので、プレッシャーはより現実味を帯びることでしょう。市の職員が「下手な対応をすれば市長の命に関わるかもしれない」などと思い、理不尽な要求を受けても多少のことは目をつぶってしまう、などということになりかねません。
これって結果的には「テロ」と一緒なのでは? 公職者が暴力を背景とした権力を体験する、そして公共の利害に関わる選択を歪められる、という意味で。
そうならないように「ハッパをかける」のが各社の社説の狙いではないでしょうか。実際に身の危険を感じてる現場の人にしてみれば「またメディアは掛け声だけかよ!」「精神論かよ!」と言いたくなるのでしょうけれど。
自由連想みたいな非論理的な印象操作も、人が恐怖を感じるプロセスが同様なものであることを考えると、あながち無意味とも言えないのかも。実際、理路整然と説明するよりそういう印象操作の方が効くんでしょうきっと(なげやり)。*1
追記: とはいえ、
似てるから何でもテロって言ってしまえ、みたいになるのはよくないんでしょうね、きっと。でもテロかそうでないかみたいな二分論になるよりは、「テロっぽい何か」ってあたりでコンセンサスができたほうが実りがあるようなないような。
*1:リフレ派が国民的支持を得られないのも。。。(ぼそ)