なぜある種のやり方で価値観の表明を行うのか問題

今回疑問だったのが、価値観の表明が、なぜか規範意識を求めていると読まれたこと。

価値観の表明が、なぜ強要や強制に見えるのか問題 (ARTIFACT@ハテナ系)

前半の草日記での議論が参照しているもめ事については何も知らないので、上の引用に続けて参照されている後半の部分を念頭に置いて反応する。

一切の文脈から切り離して文字通り読めば「価値観を表明」に過ぎないような表現であっても、読む側は、

  • なぜこの人が
  • なぜそのことを
  • なぜそのタイミングで
  • なぜその場所に
  • なぜその文体で

表明したのか、ということを考慮して解釈するし、書く方だって公開の場に書く以上それなりの理由があって書いているはず。少なくとも otsune さんや kanose さんは、Web を公共の場として認識していて、日頃ネットコミュニケーションの倫理みたいな事も提言していたりする人なんだから、宛先のない、他意のない、ただの独り言を、

  • わざわざ新規にエントリを起こしてつぶやいたり
  • わざわざ嫌味ったらしい書き方でつぶやいたり

するとは普通考えられない。チラシの裏に書いてるんじゃないんだから。

だから、そういう人がそういう形で表明しているのを見て、個人的な価値観について語っている(私はこう思う)というよりは、公共的な規範について語っている(それはこうあるべきだ)と解釈するのは別に不自然じゃない。そして遠回しにでも「君がやっている事は悪いことなんだよ」的な事を言われて「禁止」のニュアンスを感じないとしたら、そっちのほうがどうかしている。

僕自身 otsune さんや kanose さんの発言はそういう効果を承知の上でやっているのだと思っていたし、それ自体は全然構わないと思っているのだが、「そうじゃない、これはただの「価値観の表明」だ」みたいな事を言い出したのでむしろ驚いた。

というか、自分の発言が他人の行動に影響を及ぼすとか、圧力がかかるとか、そういうことがそんなに嫌なんだろうか? あるいは、そうしたいと思っていると他人から思われるのが嫌なんだろうか?

僕は他人の行動に影響を及ぼしたくて、他人の意志決定に圧力をかけたくてブログを書いているのだけど。みんな互いに影響を及ぼし合って考え方や行動を変えたり変えられたりしあうのが面白くてブログやってるんじゃないの?