騙されたくない人たち (2008年夏コミVer.)

[このエントリは2008年の夏コミで販売した同人誌『ソシオクリティーク ナツカレ2008』(リンク先はSynodosの通販サイト)に寄稿した文章です。タイトルからお気づきの人もいるかと思いますがこれは2005年にこのブログに書いた「騙されたくない人たち」を改稿・加筆したものです。以前読んだ方も是非。]

メディアリテラシー」の台頭

ネットの言論に触れていると頻繁に「メディアリテラシー」という言葉に出会う。メディアの嘘を見抜き、メディアに踊らされないためのスキル、というニュアンスで使われている。それはネットへの参加資格のようにも受け止められていて、メディアの嘘に騙された者はしばしば「嘘を嘘と(ry」のような言葉で揶揄される。この言葉の語源は、2ちゃんねる掲示板の管理人の西村博之(通称ひろゆき)の「嘘を嘘と見抜けないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉だ。

「嘘を嘘と見抜けないと難しい」は元々はネットメディア、特に2ちゃんねるに流通するような出所の不確かな情報に踊らされてはいけないという警句であったが、今ではマスメディアの情報に対するメディアリテラシーを問う文脈でも使われるようになっている。マスメディア自体が不確かな情報源として懐疑の目に晒され、マスメディアの情報を批判的に検証するようなネットメディアには一定の人気があるようだ。2ちゃんねるのニュース速報板のようなマスメディアの報道について語り合う掲示板でも報道内容自体に懐疑的あるいは批判的なコメントはごく普通に見られる。

マスメディアの情報が単純に鵜呑みにされないというのは市民社会にとっては健全な傾向ではあるが、その一方でネットメディアの草の根的コミュニケーションが情報源として重視される傾向には危険が孕む。デマの発生と拡散という危険性だ。

ネットのデマ

2004年4月に発生したイラク邦人人質事件を巡るデマはネット発のデマが国政を巻き込む寸前にまで至った事例だ。2004年4月7日、イラクに入国した3人の日本人が現地の武装勢力に拉致され、翌日アルジャジーラに人質の映像と自衛隊イラク撤退を求める声明文が届いた。映像と声明文は日本のテレビでも放送されたが、その日のうちに2ちゃんねるを中心に、事件は人質が仕組んだ自作自演だとする意見(以下、自作自演説)が広がった。

疑惑の根拠を手際よくまとめたリストは2ちゃんねるのみならず当時普及しつつあった個人ブログにもコピーされ、自作自演説は報道の翌日にはネットでは広く知られるようになっていた。あまりにあちこちで言われるようになったせいか、一部のジャーナリストや国会議員までがこれを信じて、政府の事件への対応にも影響があったと言われる。

事件発生当時に自作自演説に一定のリアリティを与えた要素はさまざまだ。当時をふりかえった時に大きな要素として挙げられるのは人質の一人がネットの掲示板に書き込んだとされる犯行予告(いわゆる『ヒミツの大計画!』)だが、当時流布していた疑惑リストは10項目あり犯行予告はその3番目に挙げられていた。

問題の書き込みの裏がとれないという難点は早くから認識されており、犯行予告自体は耳目を集める話題ではあったが決定的な証拠とは考えられていなかったと思われる。むしろ状況証拠と称する様々な疑惑が次々と指摘された流れにリアリティを感じさせるものがあったのだろう。

いずれにせよ確たる根拠はなかったわけで今思えば「嘘を嘘と(ry」とツッコまれるべき典型のような状況だったのだが、少なからぬ人がマスメディアが報じたありのままを疑い、ネットで暴露された「真相」を信じた。

認知的不協和かゲーム的選択か

デマに踊らされる人たち、特に劣勢になってもなおデマに固執する人たちを見ると「人は信じたいものしか信じない」という格言が思い出される。人は信じられない場面に遭遇すると認知を歪めることによって不安を和らげようとする。心理学で認知的不協和と呼ばれる現象だ。人は認めたくない現実から目をそらすため、都合のいい情報に集めてくることで不安を和らげる。

確かにそれで説明がつくようにも思える。しかし、そこで前提となる「事件はデマ支持者にとって認めたくない事実である」という部分は実はあやふやだ。ネットのデマの場合、支持者の多くは匿名であり日頃何を考えているのかよくわからない人たちだ。他の説明がありえないのなら、デマを支持するからには事件を認めたくなかったのだろうと推測できるが、果たしてそうだろうか。

認知的不協和説は個人の内面に原因を求める点で問題を単純化しすぎるきらいがある。その場にいた人の大半の人が信じたデマではなく、自作自演説のように誰もが信じたわけではないデマに認知的不協和説を適用すると、それは突き詰めれば「デマを信じる人は要するにそういう人なのである」という説明になってしまう。実際にそういう面はあるかもしれないが、別の説明はないだろうか。

また、認知的不協和説ではデマを支持することはすなわちデマを信じることになる。しかし実際には信じなくても行動で支持することはある。例えば銀行が近々倒産するという情報があった場合、本気でそれを信じなくても倒産した場合に失う預金の額が大きければ預金を下ろしに行くだろう。デマだった場合に無駄になるコストはずっと低いので、デマを支持する行動をとるほうが合理的なのだ。

何らかの利益を巡るゲームのような状況がある場合、デマを支持することが不合理な反応ではなく合理的な選択になりうる。自作自演説のようなネットでよく見られるマスメディアの裏読み、深読みに基づくデマについて、そのような説明が成り立たないだろうか。

メディアリテラシー」のゲーム

メディアから得た情報に対してプレーヤーが立ち位置を選択するゲームを考えよう。メディアの情報は「真実」か「虚偽」のいずれかだが、プレーヤーの選択時点ではどちらなのかは不明である。プレーヤーはその不明な情報に対して「信用」か「懐疑」のいずれかの態度を選択する。選択後にその情報が「真実」か「虚偽」が判明し、プレーヤーは選択に応じた得点を得られる。

平たく言えば情報の真偽を言い当てるゲームだ。得点表は次のようになる。

真実 虚偽
信用 a b ( < a, d )
懐疑 c ( < a, d ) d

横軸は情報の真偽、縦軸はプレーヤーの態度で、a 〜 d の変数が得点である。カッコ内は得点の制約条件で、要するに真偽を言い当てた選択(a または d の場合)は外した選択(b または c の場合)より高得点になるという意味である。得点が何を意味するか、すなわちどんな利益を巡るゲームなのかはここでは棚上げするが、たとえば他者からの評価が得点になる、ということが考えられる。

プレーヤーは得点の期待値が高い方を選択するのが合理的選択となる。情報が真実である確率を p とした場合、それぞれの選択の期待値は次のようになる。

期待値
信用 ap + b(1 - p)
懐疑 cp + d(1 - p)

実際には p も a 〜 d の得点も事前に値を知ることはできない。いずれも選択時点でのプレーヤーの予期する値で期待値が計算されることになる。つまり、選択を左右する要素は、大きく分けて二つある。

  • 情報の確からしさ(p)をどう見積もるか
  • ゲームのルール = 得点表(a〜b)をどう認識するか

プレーヤーの情報に対する認知が歪むことで p を過小に見積もる、というのが認知的不協和説の説明に相当する。基本的には心理的な動きだが、自作自演説の10項目の疑惑のような、認知の歪みを伝達するような情報がフィードバックされる現象(いわゆるサイバー・カスケード)によって、後から来た人の p の見積もりに影響を与え、懐疑派が一定の勢力を形成するというわけだ。

しかし、期待値は p だけでは決まらない。p が同じでも得点表の構造によって期待値の大小が逆転しうる。

ゲームのルールと選択

まず単純に情報の真偽を言い当てれば 1、外せば -1 の得点になるルール(ルールA)を考える。得点表と期待値は次のようになる。

真実 虚偽
信用 1 -1
懐疑 -1 1

このルールでは p が 0.5 より大きければ信用の期待値が懐疑の期待値を上回る。つまり、単純に真実の確率の方が高ければ信用、虚偽の確率の方が低ければ懐疑を選択するのが合理的になる。これは得点表の対称性に由来する性質で、得点表が非対称になると真実の確率の方が高いにも関わらず懐疑を選択することが合理的になる場合がある。

たとえば虚偽を信用したときにペナルティが、虚偽を見破ったときにはボーナスが出るようなルール(ルールB)を考えよう。たとえば得点表が次のようになる場合だ。このルールだと7割くらいは真実だろうと思っていても合理的プレーヤーは懐疑を選択してしまう。

真実 虚偽
信用 1 -2
懐疑 -1 2

このようにルールを変形したゲームは、情報の真偽を当てるゲームと言うよりは、騙されずに嘘を見破る「嘘つきゲーム」に近付く。冒頭で述べたネットの「メディアリテラシー」とはこのようなゲームを勝ち抜くスキルのことではなかったか。

なぜ「嘘つきゲーム」なのか

現実の「メディアリテラシー」のゲームが「嘘つきゲーム」になるとしたら、その条件は何だろうか。現実の問題に立ち戻るには、まず「嘘つきゲーム」が何を最大化するゲームなのか、つまりプレーヤーにとって何が得点なのかという問いに答える必要がある。

この問いの答えは、つきつめれば「自尊心」ということになろう。賞金が出るわけでもないテレビのクイズ番組を家族や友人で楽しむのと同様だ。ゲームに勝つと仲間の評価を通じて自尊心が満たされる。しかしそれだけなら、ルールBのような「嘘つきゲーム」になる必然性はない。単純なクイズゲームならルールAのゲームになるのが自然だ。

ゲームを「嘘つきゲーム」と認識する視点は、おそらく情報提供者を敵とみなすところから来るのではないか。まず、一般的なメディアリテラシーの基本に従って、情報は単純に目の前に転がっているのではなく、誰かが目の前に置いたと考える。そして、「メディアは敵」と考えるならどうだろう。すなわち、その誰かがプレーヤーを騙そうとする敵かもしれない、と考えるなら。

「嘘つきゲーム」の非対称性は二つある。一つは b と c の非対称性だ。「嘘つきゲーム」を嘘つきと戦うゲームと考えると、得点表の b は騙されたこと、負けたことに対する屈辱の大きさを表す。まんまとしてやられた、くやしい、みじめだ、というわけだ。一方、得点表の c は騙そうとしていない相手を攻撃してしまった時のばつの悪さ、ということになろう。

これが単なるクイズゲームならどちらも等しく不正解ということになるが、嘘つきと戦うゲームなら本当の負けは b だけだ。c は戦争で言えば誤爆に相当するような失態には違いないが、自分のミスであり、敵に負けたわけではない。相手が味方なら心も痛むが、敵か、敵のように見える誰かならそうでもない。かくして b は c より小さい(b の方が失うものが大きい)ということになる。

もう一つの非対称性は d が a より大きい点だが、これも同様だ。勝利と言えるのは d だけだ。a はいわば停戦状態であり、余計な損害を避けたという以上の積極的な意味はない。

まとめ

ここまでの議論でわかるのは、次のような状況でデマが生まれやすくなるということだ。

  • 情報に対して「嘘つきゲーム」が行われる
  • 提供される情報に不確かさがある

問題は、不確かさがわずかでも懐疑的な見解が支持されやすくなるため、結果的に懐疑的主張はデマになりやすいということ、そしてこれが決して偏見でも現実逃避でもなんでもなく、合理的な選択の結果であるということだ。それゆえ、懐疑的主張の蓋然性のなさを多少指摘したところでデマを食い止められないのだ。

以上の議論では可能性を検討しただけで、実証的な根拠があるわけではない。言うなれば「こうだといいな」という僕の希望を書き連ねているだけだ。ネットのデマが認知的不協和の結果に過ぎないなら、デマの発生に対してはほぼ打つ手がない。それは人間の本能に基づくもので介入の余地はほぼない。しかしデマの発生がゲーム的選択によるものならば、ゲームのルールに介入する余地がある。そこに希望があるわけだ。

具体的なアイデアはまだないのだが、闘争心ベースのゲームではなく知的好奇心ベースのゲームになるような仕組みができないものかと思案している。「嘘か本当か」ではなく「本当はどうなのか」を巡るゲームを楽しめるように。