ブックマークに返事があったので。
うーん、これも動機はわかるけど、、、という話だと思うのですが。。。
簡単にコメントしようと思って下書きしていたら、意外と長い話になってしまったのでエントリにします。
ラベリング理論
たとえば、「不良」のラベルをはられた少年がやさぐれて非行に走り、いつか本当の「不良」となってしまう、というのはありがちな話だ。
ラベルというのはそのように、はられた人間をラベルどおりに作りかえてしまうような呪いの力を持っているのだと思う。
大事なのは「デマ」をなくすことでしょう? - mitsu_bcの日記
そうですね。いわゆるラベリング理論の話です。この「不良」の話が理不尽なのは「行為」の問題を「人格」の問題にすり替えられてしまうからだと思います。
もちろん人は自分のした行為に責任を持たなくてはなりませんから、その責任の範囲内で非難されるのは当然ですが、「不良」というラベルは人格に対するもので「悪いことをした人」ではなく「わるいことをする人」という評価を表すものです。
もちろん犯した罪に対する反省がなく、同じ過ちを繰り返す人についての評価が厳しくなるのは仕方がない面があります。それは信用とか信頼の効用と裏腹です。
しかし、あまりに安易に人格を否定するようなラベルを貼るのは、そのラベル自体が人格形成を歪めてしまい、さらにはラベルがもたらす予測可能性への信頼を高めてしまい、ますます人々にラベリングを促すことになってしまう、というイヤさがあるわけです。
まあ、そんなことは理論とか言わなくても昔から*1「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。そういうのはよくないとされながら、そういうことが繰り返されてきたということでもあります。
ここで「デマ」に話に戻すと、「デマ」というのは「人」に貼るラベルではなくて「言説」に貼るラベルです。デマの否定は人格否定ではありません。「デマ流すなよ!」というクレームも人格否定ではありません。デマを流す行為が非難されているのです。
ですから「デマ」というラベルを「不良」というラベルと並列で扱うのはおかしいと思うのですが、ただ、そう扱いたくなる事情はわかります。というのは、自分の言葉を否定されると自分の人格が否定されたかのように感じてしまうということは、一般的によくあることだからです。また、善意からの発言行為を否定されると、善意までも否定されたかのように感じてしまうことはよくあります。
「中立性」とは何か
しかし、よくあるからといって、それでよい、というわけではありません。公の言論空間で、公共の利害に関わる発言をする限り、発言の内容と発言者の人格はまずは*2切り離して耳を傾けるべきというのがタテマエです。そうでなくては、それこそ「不良」のラベルを貼られたような人の発言が、多数派によって都合良く無視されてしまうからです。
しばしば言論の場での「人格攻撃」が非難されるのは、人格攻撃そのものが卑劣であるというだけでなく、そのような理由があるのです。
ですから、このタテマエの元では、自分の言葉が否定されてもそれを直ちに人格攻撃と解釈してはいけません。もちろん人間ですから反射的にそう解釈してしまうことは仕方がないことですが、それを議論の場に出してはいけません。健全な批判を人格攻撃であるかのように振る舞うのは、それ自体が裏返しの人格攻撃とも言えます。
まあ、タテマエを守りつつ、互いが互いに我慢しながら議論を進めた先で、互いの不満が爆発して大変なことに、ということも多々あるのですが…
むしろ相手を誠実な一個の人間として扱ったうえで、淡々と「誤り」として、すなわち中立的な態度で指摘したほうが結果として「デマ」を減らすことになるのではないか。
大事なのは「デマ」をなくすことでしょう? - mitsu_bcの日記
これはその通りなのですが、発言者の善意・悪意に関わらず「デマ」を「デマ」として非難することは、上に挙げたようなタテマエを尊重するという意味で「中立」的な態度なのです。
もちろん、「公共の利害に関わる」ということは要するに「政治的」ということであり、政治とは多数派を説得することであり、多数派は「言葉」と「人格」を区別しない「罪を憎んで人を憎まず」どころか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」人たちであり、そうであれば、言論のタテマエなんてそんなホンネの前では無力であり、したがって、なだめたりおだてたりして人々の心をあやつるのが正解、という、ミもフタもない話だってできるのですが、、、
それでもしかし、言論のタテマエが最初からなかったかのように、誰かの発言を「デマ」と言うことが当然に人格攻撃であるかのような立論には納得できません。mitsu_bc さんが求めている「中立性」を mitsu_bc さん自身が最初から放棄しているように見えるからです。
「デマの影響力をなくす」ことが目標
大事なのは「デマ」をなくすことでしょう?
大事なのは「デマ」をなくすことでしょう? - mitsu_bcの日記
大事なのは「デマをなくすこと」ではなくて、「デマの影響力をなくす」ことです。確信犯のデマはなくすことができません。そして確信犯の意図も一種の「善意」なのです。善意を尊重してもデマはなくなりません。ですから、デマが「デマ」と周知されること、デマが訂正されることが重要です。
デマの影響力をコントロールするために「デマ」というラベルを貼るのです。そうすれば、気になる人はデマ検証記事などを見て判断するでしょうし、少なくとも悪意のない第三者は、それは「デマ」だと知っていれば、あるいは「デマ」っぽいと感じることができれば、デマの拡散に荷担することはありません。
もちろん、この戦略が機能するためには「デマ」のラベルが安易に使われるべきではありません。「デマ」のインフレ、特に対立する立場の双方が「デマ」ラベリングの応酬をするようになると「足止め効果」*3で人々は他人の言うことを検証しようとしなくなってしまいます。
もっとも「デマ」っぽいパターンを察知するリテラシーによる抑止というのも、一種の「足止め効果」には違いないので、程度問題としか言いようがないところがあるのですが。
過剰攻撃の問題
mitsu_bc さんのエントリでは明示はされていませんが、そのブクマにあったコメントが、その問題意識の背景にあるのではないかと思ったので引用します。
コメントの一つ一つを見れば、「断罪」や「難詰」という表現はおおげさで、ほとんどはまっとうな批判や指摘の範囲だと思います。しかし大勢で袋叩きにすることで結果的に「難詰」になってしまう。難しいですね。
ネットのような場で、人々が思い思いに妥当な範囲で非難するだけでも当事者や周囲に集団リンチ的な印象を与えるという問題は確かにあります。これはネットでは一般的な問題で(パソコン通信の時代からある)、対処が難しい問題でもあります。
こういう場合、たとえ自分が相手を非難する立場にあっても、行き過ぎた非難は批判するという態度をとる人が一定数いれば、相手側の被害感情をかなりの程度緩和することになると思うのですが、最近ではそれをやる人が双方から叩かれるという理不尽な目にあうことが少なくないので、やりたがる人が慢性的に不足するという…
ある程度小さなコミュニティ内でのトラブルであればこの手の仲裁が機能するのですが、社会問題レベルの話題になると、これがまるで機能しないことがあります。仲裁者が本来自分が批判すべき相手の論点を延々と代弁するはめになって、しまいにはそれが自分の意見であるかのように誤解されて叩かれるという往復ビンタ状態になったりすることも。こんなのどうすればいいんですかね?
*2:こういう限定を付けるのは、やはり、過ちを認めない人、過ちを繰り返す人、という評価によるフィルタリングは必要だから。