twitter の公共性について

twitter の公共性、ということについて。

twitter というのは、半私的な「つぶやき」を互いに覗きあう関係でつながるというフィクションの元に成り立つSNSだった。自分の発言はあくまで「つぶやき」で、フォロアーはその小さな声をわざわざ聴きにきた人で、嫌ならフォローを解除すればよい、だから気軽に好きなことをつぶやける、という。

1つのツイートには140文字しか書けないし、タイムラインで大勢のつぶやきが混ざり合うのが前提だから、発言の文脈を伝える事は元々困難。だから基本的に斜め読みされることを前提にしたゆるい発言と前提して、読む側にも斜め読みが推奨され、多少のことはスルーするのが作法だった。*1

しかし、リプライが多用され対話や議論が頻繁に行われ、ツイートがリツイートにより多くの人に共有されたりファボや外部ツールによりストックもされるようになり、有名人のツイートが報道に引用されることも増えていった。結果、半私的な「つぶやき」だったはずのツイートは、公共の場の発言としての重みを持つようになっていった。

ユーザータイムラインはもはや個人スペースとはみなされなくなった。個人ブログや、あるいはかつて「ホームページ」と呼ばれた個人のウェブサイトと比べると、ユーザータイムラインは独立した場所としての性質が失われており、twitter という大きな場、巨大で終わりのないシンポジウムのような場の一部であるとみなされがちだ。

個人ブログ等の個人サイトは、その内容が読者を不快にするものであったとしても、それが特定の誰かに向けたメッセージであったり、あいるはことさら公共の利害に関わるものでもないかぎり、原則的には「嫌なら見るな」が正論として通用する場だった。

個人サイトの「炎上」は、公共性が問われるケースでないならば、それは「荒らし」による被害であり、あるいは一種の災害のようなものだった。嫌なら見なければいいだけなのに、わざわざ突撃して荒らすイナゴのような連中こそが悪である、しかし、ネットというのはそういうものであり、ウェブサイトで何かを公開する以上はそういうリスクに備えることが推奨される、というのが一般的な認識だったと思う。

twitter も元々は「マイクロブログ」と呼ばれたように、ユーザータイムラインが個人ブログのような場になることが想定されていたはずだ。しかし、最近の twitter では個人的なつぶやきに「公共の場での発言」として品位や配慮が求められるケースが多くなったように思う。「嫌なら見るな」が通用しなくなってきている。

twitter が持つ曖昧さ、半私的な「つぶやき」が漂う空間であると同時に公共的な言論空間でもある、という性質が、後者で塗りつぶされることで失われつつある。それは「つぶやき」が多くの人を救ったり、あるいは逆に多くの人を傷つけたりしたという事実が積み重なった結果であり、避けようのない変化なのかもしれない。

しかし、twitter ユーザーの圧倒的多数は今でも「つぶやき」というフィクションがあるからこそ気軽に twitter に参加できているのではないだろうか。そして twitter の公共性も、そういった気軽な一般ユーザーに声が届きうるという状況に支えられているのではないか。ちょうどテレビの公共性が娯楽目的でテレビを見る習慣を身に着けた多くの一般視聴者の存在に支えられているように。

だとしたら、twitter のフラットな双方向性によりかかって炎上有理とばかりに無差別に品位や配慮を求め続けるならば、それを求める根拠であるはずの公共性自体が損なわれてしまい、タコツボみたいな「論壇」だけが残るということになりはしないだろうか。

僕自身は元々「ネット論壇」的な場で長く活動してきたせいもあり、ネット上の他人の発言を挑戦状みたいに受け止めてしまいがちだし、メンタルの調子が悪い時には他人の「つぶやき」をハラスメントのように感じてしまうことも度々あるのだけど、それはバランスが悪いと思うようになってきた。

だから、もう少し「嫌だから見ない、それでよい」という態度を意識的にとるようにしたいと思っている。「見過ごさない、勇気をだして声を上げる」という態度が大事なのは言うまでもないが、どこかでバランスをとらなくてはならないと思っている。釣り合いがとれるポイントがどこなのか、まだ見当もつかないけれど。

(初出: facebook)

*1:twitter が始まった当初は、世界中の公開ツイートをリアルタイムに表示するパブリックタイムラインというものがあった。しかしそれはあくまで雑踏のような場で、ざわめきをディスプレイするためのものであり、それ自体が公共的な言論空間として扱われてはいなかったと思う。