学校での虐待(いじめ)には単純な暴力以外にコミュニケーションを通じて(あるいはコミュニケーションを断つ事によって)精神的苦痛を負わせるタイプのものがある。角田さん曰く、
恰も「いじめ」問題で、暴行や恐喝などの明らかな犯罪とシカトのようなコミュニケーションのトラブルに属する事柄が同じ「いじめ」という括りで報じられ・論じられているようなものだ。
ミサイル発射と核実験以来 (Living, Loving, Thinking)
確かに区別が必要なのはそうだと思うが、「シカト」の類は「トラブル」なのだろうか。一般にトラブルという言葉は加害/被害という区別から中立な表現であるが、犯罪と区別すべきものとしてこの言葉が出てくるのだから、中立というよりは積極的に加害/被害の関係を否定する意味で使われていると思った。エントリの本筋からは離れて恐縮だが、どうも「シカトのような」タイプの虐待が矮小化されているニュアンスを感じたのでコメントした。
# rna 『>シカトのようなコミュニケーションのトラブル
心の病気になるほどのそれは十分犯罪では。
やり方にもよりますが「暴行や恐喝」より酷い苦痛になり得ますよ。
特に子供にとっては。』 (2006/11/30 01:38)# sumita-m 『どうも。「心の病気になるほどのそれは十分犯罪」というのはご指摘のとおりだと思います。ただ、処罰というアプローチで、解決可能な問題なのかどうかは、まだはっきりしたことはいえませんが、少し疑問ではあります。』 (2006/11/30 02:23)
# rna 『処罰だけでは解決になりませんが、処罰なしでは解決にならないこともあると思います。ややこしいので後ほど自分の日記に書こうと思います。』 (2006/11/30 06:35)
ミサイル発射と核実験以来 : コメント欄 (Living, Loving, Thinking)
一般に加害者を処罰したからといって「コミュニケーションのトラブル」は解消されはしない。当事者が同じ場に居続けるならむしろ余計に険悪な状態になるだろう。学校に限らず職場のトラブルや、地域の共同体の中でのトラブルでもそうだが、結局のところ当事者の一方が立ち去ることでしか決着はつかない。だとしたら処罰は無駄なのだろうか? そうは思わない。特にここで問題になっている学校での虐待(いじめ)については。
まず、「コミュニケーションのトラブル」としては例えば次のようなものを想定している。
男児は中国・四国地方の小学校に通学していた3年生の時から徐々にいじめが激しくなった。その体験を便せんにびっしり書き込んだ。
《「くるな」「くさい」「さわるな くさる」といわれて……先生に言ったけど、はい、やめます、と言ってからもまだやる。口先だけのやつらばかりで先生に言うのもあきらめました》
期待していた進級時のクラス替え後も、いじめる相手が少し変わっただけだった。転校したい気持ちを担任に訴えた際、「そこまで傷ついているとは思わなかった」と言われ、驚き、あきれた。
友人に迷惑は掛けたくなかった。《友だちにたすけてと言うのは(やめました。) ほかの子をまきぞえにするのはいけないから 言わないうちに同じ学年に友だちがいなくなりました》
中学でも校区の関係で同じ顔ぶれになる可能性が高い。家族で決めた解決法が「転校」だった。
母親は「悪口だけでなく、息子は無視され、毎日嫌われていることを確認しに学校へ行った。闘うにも目に見える暴力とは違い対抗のしようがなかった」と話す。
いじめ:「転校してもいい」 小5が手紙で切々と (毎日新聞)
シカトや悪口が特に深刻な問題になるのは、特定の「いじめっこ」がそれをするというのではなく、クラス全員、学年全体、といったレベルでそれをやられる場合だ。子供の場合まだ世界が狭いので、世界中から自分が否定されるような、この世界に自分が存在しないような、そんな感覚に襲われ、自己肯定感が根こそぎにされてしまうことがある。*1 なんとか自分を保てたとしても、それは世界を否定することでやっとたどり着く境地であり、その代償として著しく社会性が失われることになる。
こうなるとこの世のどこかに「逃げる」という選択肢がまず思いつかない。逃げた先に希望があるとは思えない。目の前のこの場所だけが異常なのだという感覚がないからだ。むしろ、平穏な場所、平穏な時こそが例外的で異常なのだ。そして逃げる以外の選択肢がないとすれば、そのこと自体が世界が自分を否定している証拠なのだ。加害者は逃げもせず、逃げる必要もなくノーリスク・ノーコストだとすれば、世界は加害者を肯定し、被害者を否定しているのだ。逃げ延びたとしてもそのことが一層傷を深くする。逃げた先で苦労すればなおさらだ。*2
また「復讐」というのも自己肯定感を失った子供には難しい。呉智英はこう言うのだが。
学校では報復・復讐は道徳的な悪だと教える。しかし、それは嘘だ。人間が本来的に持っている復讐権を近代国家が独占したに過ぎない。大学で法制史を学べばすぐわかる。復讐は道徳的には正しいのだ。現に、ロシヤに抑圧され続けたチェチェン人は果敢に復讐をしているではないか。
被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから。(評論家・呉智英)
【コラム・断】イジメで自殺するくらいなら (イザ!)
復讐せずに自殺する子供たちは別に学校で「報復・復讐は道徳的な悪だと教え」られたからではなく、自分が生きている価値がない存在だと 思って/思い込まされて いるから自殺するのだ。民族の伝統や共同体の絆に支えられたチェチェン人とはそこがまるで違う。
それでも呉氏の「復讐せよ」というメッセージには意味がある。それは間接的ではあるが極めて積極的に被害者の生を肯定する。いや、むしろ子供からすればどこの馬の骨ともわからない文化人風情が言うのならここまで言わなければ通じない。
「死ぬな」とか「生きろ」などという言葉は、遠くから叫んだだけでは、目の前で否定の視線に包囲されている身には届かない。届かないだけではなく自分を取り囲む悪意が外からはまるで見えていないという事実に、この囲みの外に抜けだしても誰も自分を理解してくれないという思いを強めるだけだ。「外」から何か言うのなら、まず被害者を否定する人を断固否定するのが順番だ。
加害者を処罰することにも、同じように意味がある。あなたを否定することは「外」の世界が許さない、だから安心して「外」に逃げて欲しい、というメッセージになるからだ。
一般的に言っても、処罰というのは加害に対する抑止力だったり、応報感情を満たすというだけではなく、「社会は加害者を許さない、ゆえに加害者になることは合理的な選択にはなりにくく、それゆえ我々は日常生活の上で被害者になることを(それほど)おそれなくても生きてゆける」という予期を形成するために必要なのだと思う。世界観が歪んでしまった子供に対してはこのことは重要だ。罪と罰のバランスの問題はあるだろうが、何のお咎めもなし、というのでは話にならない。