ソースの信頼性と検証責任

有意差についてのコメント欄で、この件は有意差の有無の問題というよりはそれを macska さんが検証する責任の有無でモメてるのではないかというコメントが。確かにそういう面はあるのでその点について。

まず、あらゆる情報ソースについて裏をとれとかいわれても誰もそんなことできないし、かといってどんな情報でも無責任に垂れ流していいかというとそれもどうか、という当たりは異論はないかと思う。

では、どういう時に検証責任が出てくるのかというと、メディアに期待されている信頼性に比べて、情報ソースの信頼性はどうか、というあたりが基準になるのではないか。

つまり、信頼されているメディアがより信頼性の低いソースからの情報を検証なしで追認してしまうような場合、情報の信頼性を昇格させてしまうような、いわゆるソースロンダリングに貢献してしまうような場合に、(道義的に)責任が問われうるのだと思う。

逆に信頼性が高いとされるソースからの情報を検証なしに使ったからといって咎め立てするほどの事ではないと思う。そういう場合でも検証して間違いを見つける人は偉いけど、検証しないからボンクラというわけではない。検証する能力があって、検証したい人は検証すればいいし、責任感じちゃう人は感じちゃえばいい、という程度の話。

ただ、ソースの信頼性の評価には個人差があるからそのへんでモメることはあるかも。でも社会的責任という意味では通常一般人にとっての信頼性を基準にすべきであって、一般人にとって macska さんのブログが Washington Post やら CMU の教授の論文やらより信頼されている、なんてことはありえないわけで。