レイ・ワイア略歴など(『なぜ少女ばかりねらったのか』)

レイ・ワイア(Ray Wyre)、ティム・テイト(Tim Tate)著、栗原百代 訳『なぜ少女ばかりねらったのか』(ASIN:4794208820)読了。共著ですがレイ・ワイアの視点での記述がメインです。

レイの経歴はこの本の冒頭で自伝風に語られます。レイ・ワイアはイギリスの保護監察局で十年間勤務し性犯罪者への治療(心理療法?)を実施。アメリカ留学でFBIのプロファイリング技術も学びます。しかし刑務所や行政の無理解から治療活動を続けられず、退職。1987年、自ら診療所を作って性犯罪者の治療を始めます。実績が認められ翌年グレイスウェル診療所を設立。しかし本書が書かれた1994年頃、診療所は地域住民の反対(地域に性犯罪者が集まっているのを危険視した)にあい、閉鎖に追い込まれます。移転先も住民の手によって放火され事業は暗礁にのり上げてしまいます。

レイがこの本を書いた動機については前書きで述べています(p21-22)。長くなりますが引用。

 児童虐待者は、とくに犠牲者が一人ではすまなかったり、目をそむけたくなるほどの暴力行為をともなったりすると、“けだもの”とか“怪物”とか“狂人”として片付けられてしまいがちだ。こうした呼び名は汚物入れのようなもので、一般人が嫌悪感と怒りをぶちまけるのには都合がいい。都合がいいし、そう呼びたくなるのも無理はないが、大変な誤りである。
 本書の第一の目的は、こうしたありがちな反応を浮き彫りにして批判することだ。なるほど、虐待者は怪物級の犯罪を引きおこすかもしれないが、怪物のような風体はしていない。頭が二つあるわけでも、つり上がったまゆや落ちくぼんだ目をしているわけでもない。往来で、パブで、職場で、わたしたちのなかにすっかり溶け込んでいる。
 誤ったステレオタイプをつくりあげるのは危険なことだ。なぜなら、ふつうに見える人なら“安全”で、虐待したり、襲ったり、殺したりはしないと、子どもたちが信じ込んでしまうからだ。また、わが子への脅威は怪物だとばかり思っている親たちは、親切な人――息子や娘をかわいがって、遊び相手になってくれるふつうの人――にはあまり疑いの目を向けようとしない。
 「知らない人と話をしちゃいけない」というのが、昔もいまも、親が子に言い聞かせる決まり文句だ。しかし、子どもの理解は大人とは異なる。子どもは、たとえ見ず知らずの人でも親切にしてくれたら、たちまち友だちに昇格させるのだ。教訓とすべきことは、まだいくらでもある。わたしたち大人が“知らない人”とか“怪物”と呼ぶような連中が子どもに接近することはない。“親切な人”や“ふつうに見える人”が接触してくるのだ。この苦痛に満ちた本から、この点だけでも読者が学んでくれたら、ねらいは達せられたと言えるだろう。

僕も基本的に同意。いろんな属性(フィギュア萌えとか唐揚げ萌えとか…)を元に迫害されかねない人たちの福音にもなりますが、一方で敵が「ふつうに見える人」なら危険と思われる者の情報公開が必要じゃないかという理屈にもなるわけで。。。

レイは専ら治療(投薬ではなくカウンセリングやグループセラピー)の必要性を訴えていますが、司法への批判や児童ポルノへの批判*1もしています。

レイの見解には同意するところは多いものの、現場の人の言う事なので科学的実証性という意味では疑問もあります。小児性愛者=性犯罪者(または予備軍)のような書き方が随所に見られますが、レイの現場には既に犯罪を犯した小児性愛者しかいないという事情を考えると微妙なところ。


*1:児童の人権だけでなく性犯罪者の活力源になるという理由で疑似児童ポルノにも批判的。単純所持の処罰も支持。