「誰でも、自分でも、加害者になりうる」のか

トラバを頂いた macska さんのエントリネオリベラリスティックな衝動に抗して(ミーガン法 Part 4)について。実に実践的な提案が多く含まれ参考になります。

でも同時に、将来の被害者と加害者双方のために被害の発生を減らすための最大限の努力をする責任が社会にあるとわたしは思うし、実際に被害を減らすための有効な対策を立てることは、「誰でも、自分でも、加害者になりうる」という前提で考えなければ不可能だと思う。結局、いかにそれが醜悪な空想であるように思えても、「性暴力の加害者は、かならずしも特殊な人ではない」「場所と状況とタイミングによっては、自分も加害者になっていたかもしれない」と想像することができて、はじめて「わたしたち」の社会は「わたしたち」自身の問題として「性暴力」に取り組むことができるのだろう。

「誰でも、自分でも、加害者になりうる」という想像力が大事なのは同意します。というか僕の場合同意せざるを得ないし。でも他の人はどうなんだろう。リアルに想像できる人は少ないと思う。ある程度の年齢までに小児性愛ともサディスティックな欲望とも無縁だった人はたぶん一生そのまま無縁です。セーフティーゾーンにいる善良な人ほど「誰でも、自分でも…」という立場に立つことも、立つように説得することも難しいと思う。

もちろん「誰でも、自分でも…」はリベラリズムの大原則(入れ替え可能性)ですが、観念的に納得するだけでは、現実の利害や素朴な道徳感情には逆らえないのではないかと。もちろんリベラルじゃない人は最初から納得しないし。

もちろん macska さんは過度に抑圧的な施策は逆効果という点から利害にも訴えているのですが、逆効果になるかならないかは原理的というよりは技術的な問題かもしれません。抑圧される対象を効果的に絞り込めばコストパフォーマンス上の問題が解決され、同時に何かの拍子に自分が抑圧の対象になる可能性が極めて低くなる、ということはありえないとは言い切れません。

感情的な噴き上がりや利権絡みの欺瞞には断固抵抗するべきですが、一部の誰かが犠牲になることで「本当に」多くの人の安全と安心が確保できる、という状況になった場合抵抗できるのか。杞憂かもしれませんがそういうことを考えてしまいます。