Re:「死の実感」ということについて

トラバにお返事。

死にたくさん触れたからといってそれが「死の実感」であるとは到底思えないが、坂東さんが言いたかったことは恐らくただ死体を見ればいいということではあるまい。だからちょっとrnaさんの読みは誤読ではないかという気もするのだが、坂東さんの言い方ではそう読めても仕方がない部分もあるし、僕も正確なところは分からない。
「死の実感」ということについて(ことばの構造)

僕も坂東氏の文章は引用部分しか読んでないのですけど、動物の死体や葬儀の話は「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」という結論に先行して現代社会の死から遮断されっぷりを説明している部分ですから、あれだけ読めばそうとしか読みようがないと思います。

 メディアの影響論とも関連するが、これは受容文脈によって個々の受け止め方が違うのではないかと思う。ある「死」を前にしたときに、その「死」がどういう状況下でのものなのか、かつそれをどういう文脈で「理解」するのか、ということが「死の実感」の個人差として現れるように思う。

これはその通りで、僕はもっぱら目の前の死者と自分との間の関係で受け止め方が違ってくるのだと思いました。しかし坂東氏が示しているのはどう見ても特別な関係のない者たちの死、あるいは死体です。「野良犬、野良猫」はもちろん、「それらの痕跡は見事に消され」た後のことしか見ない人たちは「殺人、事故死」の被害者とは関係ない人でしょうし、「死化粧を施された遺体を、棺の小窓からちらりと見るだけ」なのは少なくとも親族ではないでしょう。

ただ、「誰かを殺せるってことは既にその誰かの生に共感できないってこと」という部分には引っかかるものを感じる。むしろ「共感」などできなくても普通人は人を殺せないものであると思う。特に恨みも憎しみもなく人を殺せるというのは社会的な価値規範やシステムが作用しているのであって、他人というものが純粋な手段となっているのではないだろうか。

僕があのエントリで言った「共感」というのは、他人の痛みを自分の痛みのように想像する、という程度の意味です(つまり読書感想文とかで「共感した」と書くような用法とは違う意味)。そういう意味での共感は普通の人は誰に対しても持っているもので、それゆえ「普通人は人を殺せないもの」だというのはその通りだと思います。

デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』でも人が人を殺すことの困難について、その困難を乗り越える技術について議論されています(参照:[id:rna:20040811:p2])。

 ちょっと話がまとまらないが、坂東さんの提起したかったことというのは「死の実感」が喪失しているとうことではなくて、むしろ「死」を隠蔽しようとする社会の意志なのではないかという気がする。それを説明するために根拠薄弱な少年犯罪や動物の死骸の話、生の実感が失われる、というようなことをくっつけてしまったので分かりにくくなってしまったのではないだろうか。

意志は直接伝わるわけではなく受け取る側の何らかの体験を通じて伝わるのですが、この場合は「死は遍在する」という知識*1と「しかし死体を見ない」という体験から、「死を想うな」*2というメッセージを受け取る、ということでしょうか。

あの文章をそう読むのはどうかと思いますが、そういう考え方自体はあるかもしれません。

とはいえ、死体がある種のポルノグラフィである、ということが示唆するように、隠蔽はむしろ対象への興味をかきたてるとも言えます。隠蔽することは言説を扇動することでもあります。死には何か秘密がある。現代社会の特徴とは、死をして闇の中に留まるべしと主張したことではなく、死について常に語るべしとの使命を自らに課したことである。死を秘密そのものとして評価させることによって*3――このアプローチは展望が開けないので捨てます。

死の隠蔽というのは mushimori さんが大元の記事のコメント欄でも書いているように、現代に限らず普遍的なものです。形は違いますが宗教は死に意味を与えることで、直観的・反射的な死のイメージを隠蔽します。現代社会でもメディアが死を語る時にはあらかじめ意味づけられた死が語られます。自然災害の犠牲者でさえ「尊い犠牲者に報いるために我々は…」というふうに。

坂東氏はそれでは「死の実感」が得られない、つまり死の無意味さが隠蔽される、と言いたかったのでしょうか。だから氏が例示する死は関係性を排除したものばかりだったのでしょうか。だとしたら、少年犯罪のくだりも、理由もなく殺すことで人が死ぬ、死を意味づける言説は欺瞞であり死は無意味だ、ということを確認するための殺人、というものを想定している? あるいは死が意味づけられると相対的に生の意味が希薄化して殺人への抵抗が減ると考えている?

そう読めなくもない気もしてきたけど、うーん。

*1:メディアを通じてそれは誇張された形で認識される。参照:「恐怖の文化」― 眞鍋かをりの場合

*2:ちなみに「死を想え(メメント・モリ)」というのは元々は「今を楽しめ」という意味だったんですね(参照:wikipedia:メメント・モリ)。

*3:参考文献:ミシェル・フーコー『性の歴史 I 知への意志』