ジュニアアイドルの写真集・DVD制作では有名な心交社のプロデューサーが児童ポルノ禁止法違反の容疑で逮捕された。リリース済みの17歳少女の水着イメージビデオが「児童ポルノ」に該当するとの判断だ。
作品に全裸はないが、陰部を誇張した映像や水着の上からでも性器が確認できる映像があるという。4月に定価3200円で発売、製造した5500部の大半が売れる人気作品だったという。
水着なのにポルノということで最近の表現規制強化の流れで解釈して「表現の自由」への挑戦、のように言う人もいるが、そうとも言えない可能性があると思う。
どんな映像なのか
報道では該当する作品を特定していない。ネット等でこれだという情報は流れているようだが、児童ポルノである可能性があり、まだ市場で入手される可能性がある*1のでここでも特定しないことにする。
しかし、同社の作品でハイティーンのモデルが出演するイメージビデオ(おそらく今回の件とは別の作品)を見たことがあるが、確かに「水着の上からでも性器が確認できる」ようなシーンはあった。
僕が見た作品の場合は、乳首の形がはっきりわかるほど薄手の水着が股間にしっかり密着した状態で、いわゆるまんぐりがえしのポーズをとり、カメラは股間を正面からアップで捉えて長回し、というようなもの。はっきりと透けてはいないが薄手の布の凹凸で外性器の形がほぼわかる。下手するとAVでモザイク越しに見るよりもリアルに形がわかるレベルだった。
心交社のイメージビデオというとローティーンの作品が有名だが、上で触れた作品はローティーン系のものとは相当作りが違った。いわゆるロリコン向けではなく、一般向けの「着エロ」的なもので、露骨にエロティックな作りになっている。普通のアイドルのイメージビデオ的なものとは全く違うのはもちろん、ローティーン系のヤバめの作品で見られる股間の食い込み(いわゆるω)と比べても格段に露骨できわどい。
今回問題になったものがこれと同程度に露骨な表現だったかどうかわからない。もっと露骨だったかもしれないし、もっとマシだったかもしれない。ただ、この手のビデオは似たようなフォーマットで量産される傾向があるので、似たような表現があったのではないか。もしそうなら、単純に「水着なのに」とは言い難いと思う。
「ポルノ」と「児童ポルノ」の違い
しかし水着越しなんだから問題ないんじゃないかと言うかもしれない。確かに刑法の「わいせつ物頒布罪」(175条)で言う「わいせつ」物にあたらない可能性が高い。つまり「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」(判例における刑法175条の「わいせつ」の定義)ものではないと考えられる。
しかし児童ポルノ禁止法での児童ポルノの定義は刑法の「わいせつ物」とは違う。
3 この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律 (平成十一年五月二十六日法律第五十二号)最終改正:平成一六年六月一八日法律第一〇六号 第二条三項 (法令データ提供システム/総務省行政管理局) 強調なんば
太字で強調した部分が今回のようなケースにあてはまるもので、いわゆる「三号ポルノ」の定義だ。これは刑法のわいせつの定義より広い対象が該当するとされている。
さらに、「性欲を興奮させ又は刺激するもの」という定義とわいせつの定義( (中略) )を比較すると、児童ポルノの場合は「徒に」(過度に)という文言が入っていない。つまり、児童ポルノではその描写が性的に過度であることは必要ではない。したがって、芸術目的であっても児童ポルノとされる可能性は否定できない。さらに、「『普通人』の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」であることも必要ではない。
園田寿『解説 児童買春・児童ポルノ処罰法』 p28 *2
つまり、かろうじて「わいせつ物頒布罪」を逃れるくらいのきわどい描写なら児童ポルノの定義にはあてはまってしまう可能性は高い。
なぜ「児童ポルノ」は違うか
なぜ二つの定義が違うのかと言えば、それぞれの法律で守るべき対象が違うからだ。
「わいせつ物頒布罪」が守るのは社会秩序であり、「ポルノ」を見る人が「ポルノ」に影響されることで社会秩序が乱れると考えるので「ポルノ」を規制する。
一方、児童ポルノ禁止法の三号ポルノ規制が守るのは「児童ポルノ」に出演する児童の人権であり、「児童ポルノ」に出演することで不特定の人の性的興味の対象とされることがその児童の心身を傷つけうると考えるので「児童ポルノ」を規制する。*3
「児童ポルノ」(あるいは「ポルノ」でも)に出演したからといって、その児童が必ず傷つくというわけではない。それは人によってまちまちだ。あるいは「児童ポルノ」に出演したいと思っている児童だっているかもしれない。
問題になるのは、児童に自分が傷つくかどうかを事前に判断した上で出演する・しないを自分で決定する能力(自己決定能力)があるかどうかだ。心身とも性的に成熟していない児童の場合、その能力はないと考えたほうがよいだろう。
18歳という年齢制限
しかし、どこまで成熟したら能力があると考えられるのかという点は問題になる。刑法では同意した特定の相手とセックスすること自体は13歳で可能とされているし、民法では16歳で結婚などという(僕でもなかなかできないような)決定が可能ということになっている。
「児童ポルノ」に出演することはそれらの決定に比べると、不特定の相手に何年にもわたって、(メディアを介して)自分が性的な視線で見られる、というあたりが、特定の相手との私秘的な関係に比べて、より高度な想像力を要する上に、失敗した時の負担が大きいと考えられる。また、「児童ポルノ」の制作者が大抵は大人であることを考えると、交渉面で不利であり、騙されたり、言いくるめられたりして、本来望まない条件をのまされがちなのも問題だ。
とはいえ、個人的にはソフトなヌード撮影くらいは16歳くらいでも同意可能だと思う。でも今のジュニアアイドル業界のだまし討ち体質をわりと身近に見聞きしてる身としては、現状では積極的には主張したくないが。。。
「表現の自由」と「児童ポルノ」
「ポルノ」についてはよく「表現の自由」との対立が取りざたされるが、「児童ポルノ」の場合はどう考えるべきだろう。先に述べたように、「ポルノ」規制は見る人への影響を懸念するものだが、「児童ポルノ」は見られる人(児童)への影響を懸念するものだ。いわゆる「メディア悪玉論」批判としてのポルノ規制批判は(現在の)「児童ポルノ」規制については全く成り立たない。
「児童ポルノ」の場合は、どんな表現なら許されるのか=どんな表現ならモデルは嫌じゃないか、ということになると思う。より厳密に言えば、モデルが、
- どんな表現をしたら(or されたら)
- 自分がどんな目で見られると思い
- それを自分はどう思うか(嫌じゃないかどうか)
ということについて、普通の児童ならどうかを基準に考えることになると思う。普通の、とするのは、騙されたり断れなかったりする状況を考慮するため。
単なる水着姿なら海水浴場でも水泳の授業でも不特定多数の目にさらされる事に問題はないだろうが、ことさら性器を強調するようなポーズをとらされて知らない男性たちに至近距離から股間を凝視されるというのは、一般的な女子児童にとって通常は耐えられないだろうと思う。そこまでいくと撮影自体が児童虐待に近いのではないか。
もっとも「騙されたり断れなかったりする状況を考慮」というのは、当然年齢が上がれば考慮する度合いは減ってくると考えられるから、年齢が上がれば、通常は耐えられないけれどこの人は耐えられるのでやっている、と考えられるのだが、17歳をそう考えてよいのかどうか。個人的には17歳ならOK、16歳ならNG、くらいの微妙な線。